人生で何度か予知夢をみたことがある。
老人ホームでナースをしていた頃、
私には大好きな入居者のおばあさまがいた。
声はきいたことがない。
話はできない、体も動かなかった。
リクライニング車椅子生活。お食事は胃ろうから。
彼女のみつめる目線が好きでいつも話しかけては手をぎゅっと握ってた。
90歳を過ぎていた。
ある日私は、彼女が棺にはいってこちらを見る夢を見た。
沢山の棺がならぶ中に、棺に入り、中からこちらを見ていて、誰かが棺の蓋をしめてしまう夢を見た。
私は黙って見ていた。
そんな夢も忘れた頃、彼女の具合いがわるくなり、入院。
私の家族が主治医となった。
息子様は82歳。
彼のお父様の五番目の再婚相手がその方だった。
だから年が近い。
息子様も入退院を繰り返していた。
「自分が8つ上の母親を看とりたい、でも自分が先に死んでしまうかもしれない、そうしたら誰が母親をみるというのか。
父親が愛した最後の妻。
父親がこの人を置いて随分昔に逝った。8つ上の女性、でも母親」
私は息子様に、自分が看とるために安楽死させてもらえないか、と言われた。
日本の法律ではできないことを説明するが納得いかず。
「自分が先に死んだら誰が看とるというのか、せめても自分が看とり葬式をだしてやりたい・・。」
「自分が先に死んだら、婆さんを自分も父親のように子供や孫に負担かけることになる。だから」
法律がない、といっても話はかみあわなかった。
しかし私も頼まれたからといってそんなことはできない、主治医である身内にもそんな事はさせられなかった。
きょとんとこちらを見る彼女の眼差しに、手をぎゅっと握る。
「積極的治療はしない、対症療法だけ。
最低限の点滴にしてほしい、高度な治療は望まない、自然のままに死なせてやってくれ」
安楽死というのは無理なので、必要最低限の治療がほどこされた。あくまで自然のままに。
息子様から戦時中の話、人はどういう生きざまなのかを沢山話された。
今の私達の世代とは考え方も人間の摂理も違う。
古ぼけた白黒写真。
戦争。
病気で次々と妻を失った彼のお父様が選んだ五番目の妻との写真。
五人の母親の話。
沢山のことを背負ってきた彼の、看とってやりたいという思いがどれだけのものかわかった。
彼女は退院し、老人ホームへ戻った。
ホームが自宅だった彼女に住み慣れた部屋での看とりを希望された。
私がナースとして心音など確認しその時がきたら、往診医を呼ぶことになった。
最期の管理は大変だった。ナースは私ひとりだった。
でも最期の時間を癒してあげたかった。
寝たきり、ぼんやりしているだろう意識。
彼女のために音楽療法をした。
カチューシャの唄。
ゴンドラの唄。
あざみの歌。
リンゴの歌。
意識の感覚すら、声も聞いたことのない彼女の目じりから涙が流れた。
私は驚く。
反応しなかった彼女が涙を流した。反応があった。
今まで、私の話を理解していたというのか。
彼女との日々は続いた。すごい生命力だった。
まだまだ生きれる力をもっているというのに。
ぽよを見せたこともあった。目線はあったが理解しているのかはわからなかった。でも理解していたんだろうな。
声も聞いたことのない彼女の存在は優しく、沢山話しかけた。
意識がわかっていたとすると、私のこと沢山知っていただろうな。
悩みも話した。あたし辛いのよって。
彼女を看ながら、他に同時に数人をみとった。
悲しいとカチューシャの唄を私が口ずさんだ。
二年前の今頃だっただろうか、彼女の心臓も呼吸もとまった。
私が止まったのを確認した、往診医はすぐに対応ができなかった。
日付をまたいで翌日、死亡確認後、死後の処置、死に化粧は私がした。
紅さして。
髪をくしでとかして。
となりに旦那様の写真をおいてもらった。
棺の蓋をしめたあの夢はこのことだったのか、まだ生きてるのにしめた棺。
無理に終わらせたような人生。
抵抗しない彼女。そんな夢。
お通夜に行き、棺に横たわる彼女をみた。あの目線はなかった。
喪服の私は暑かった。
これからナースになる方々、看護感はひとそれぞれだけど、生きてきた世代によって考え方も常識もまるで違う。
戦争の古傷が痛むと言われてもわからないだろうけど、理解したい、よりそいたいって思いが大切なのかもしれないね。
うるさいと思う家族がたとえいても、子供からしたら戦時中、火の手があがるなか、自分を背負って逃げてくれた母親。そんな思いだったりする、だから耳を傾けてあげてほしいな。
忙しい毎日でも、理解しようとつとめるのが真心かな。