なぜ、被害者が肩身を狭くし

身を隠し、後ろ指を指されながら生活をしなければならないのか?

 

また、なぜ被害者なのにお金をかけ弁護士を雇わねばならないのか?

自殺しなければならなかったりね…。

 

つくづく世の中はおかしいと思いますね。

ずっとそれを書こうか書くまいかを考えていて時間が過ぎていました。

 

加害者というのは、

意外にも自分は悪くないと

厚い面の皮の人間が少なくない

むしろ事実を捻じ曲げたり

自分を正当化している加害者が多いと感じます。

 

 

このコロナの自粛期間にご縁があって

関東交通犯罪遺族の会の皆さんと出会いました。

 

交通事故についても

私自身も飲酒運転の無保険男性にぶつけられて

ツアープロへの道を断念した経験があります。

 

KUNIKO先生も高齢者で悪質な無免許運転者に追突された

経験があります。

 

まだ私たちは、命に別状はありませんが

人生が変わってしまったし

こちらは、何もしていないのに

被害者が膨大な時間とお金をかけねばなりません。

 

一番、悲しく腹がたつのは

相手方が、誠実ではなく謝らないことです。

 

関東交通犯罪遺族の会(通称あいの会)のみなさんとの出会いは

衝撃でした。

 

きっかけは、実は以前から接点があったようなのですが

タイミングがきたのでしょう。

 

代表の方がこのブログをフォローしてくださってから

数週間のうちに直接お会いすることとなったのです。

 

ただこういったことでも事件として警察が取り上げてくれない

日常にもたくさんの被害者がいます。

 

私たちの歴史を知る人は感じているかもしれませんし

同じような被害で苦しんできた人もいるかも知れません。

 

血が流れたり、人が死なないと事件にはならないのですから

今の世の中は、事件が防げるわけがありません。

 

あいの会の皆さんに出会ってからと言うもの

私たちは、この会の方々の姿勢に傾倒しています。

 

遺族として消えることのない苦しみの中にいながら

それでも、同じ思いをする人を無くすことを目標にし

そして、同じく残念なことに被害者となってしまった方々を

サポートする活動をされている

あいの会のみなさんの心意気と活動と活動内容、行動力には

到底頭が上がらない日々を過ごしています。

 

耐えがたい現実と向き合いながら

それでも人を助けようと動かれているみなさんに

私たちは何ができるのだろう?

 

奇しくも犯罪者に命を奪われてしまった魂に

私たちは何ができるだろう?

 

そんなことを必死に考える日々でもあったこのブログの更新のない日々でした。

 

 

私が、考えられない、腹正しいと思うことの一つは

こういった事故が起きた時のシステムです。

 

日本では、事故を起こした時に

【まず、謝らないこと】と言うのが当たり前になっていると思います。

 

おかしな話です。

 

事故を起こしてしまった人間に誠意がない。

自己防衛に走る。

これはもう犯罪者以前に、人間とは言えないと思えてなりません。

また、そのようにさせてしまう仕組みに問題があります。

 

大の大人が、自分の犯した罪を償う気がないのです。

人の命を奪っておいて

自分が助かろうとするのです。

 

情けないというか、見苦しいというか

腹正しいと言うか呆れかえる。言葉がでないほどの状況なのです。

 

加害者の人権だの、家族だのと言う前に

事実自分が犯した罪を受け止めて認め、心からの反省と謝罪をするのが

道理なのではないでしょうか?

 

それだけでなく、人の命を奪った衝撃が加害者の身体には染み付いているはずです。

 

ここから先は、少し過激な表現もさせてもらいますので

繊細な方や敏感な方は、先を読まないようご注意ください。

 

実は、私にはそのような経験があります。

 

【私は、人を殺してしまいました】

 

一人の人間の命が私の身体の下で亡くなった経験をしました。

 

私の乗っていた電車に人が飛び込んだのです。

 

それまで私は、電車で一番前の車両乗ることをずっと避けていました。

それは、幼い頃から母の指導で電車の一番前はぶつかったりした時に

被害が大きいからとのこと。

 

当時私は、自分で努力してなんとかなることでないことで

日夜、ストレスを抱えていた日々を過ごしていました。

 

電車で帰宅途中、少し人の少ない前の方の車両に乗ろうと

乗り換え時に、前の方へ進んだことは覚えていますが

なぜ、一番前の車両のその一番前に乗ったのか覚えていません。

 

私は、立っていました。

 

その時の状況を明記することは今は避けますが

 

その時、停車駅のホームに入るのに

なぜか電車が減速していなかった気がします。


ただ、その一瞬の時間にできる限りのことを車掌さんはしたのかも知れません。

物凄い音のクラクション?汽笛?が

長くなったかんじでした。

かなりのスピードだったように感じたその瞬間

 

大きな衝撃音と共に車掌室の窓ガラスが割れました。

耳の鼓膜が圧迫されるようなものすごい大きな音でした。

自分に割れた窓ガラスが飛んできたような気がするほどの音と

時空間が違う時空間になった感じでした。

 

その次の瞬間

私の足ものとタイヤが何かを踏みつぶしました…。

全身にその衝撃が、足元から頭の先まで走りました。

全身、身の毛がよだつよいうか鳥肌がブワッと立たと思ったら

電車は止まらず次のタイヤも踏みつぶしました。

 

おそらくその次のタイヤの所でやっと電車が

止まったような感じです。

 

私は、いつもはiPadや携帯で仕事の残務をしながら帰るのに

その日に限ってぼーっと進行方向よりを見ていました。

 

 

その後の様子は、

車内に居合わせた人々はまさか…

やめてくれ…と言う空気が漂う状況に

慌ただしく駅員さんたちが無線で確認し合う声だけが

聴こえていました。

 

パニックになっている車掌さんは、無線がオープンになったままだったのか?

業務的な内容が1両目に聴こえていました。

 

車両の下の様子です。

どのよな状態なのか…

 

パニック状態の車掌さんを

本部か、別のスタッフさんが怒鳴り散らすように

『しっかりしろ!よく状況を教えろ!!』と叫びました。

 

詳しくは控えます。

 

 

あの時、私のカラダに染み付いた感覚を忘れることが出来ません。

ただでさえシンドイ精神的な被害を受けていた日々でした。

 

それ以上に、目を閉じるとその状況が浮かび

小さな音にも怯えてしまう。

耳をすますと無線が聴こえてきてしまう気がする。

 

眠れない日々が続き電車に乗りたくない日々でしたが

仕事は休めませんから乗るしかありません。

心臓が飛び出しそうで、吐きそうで、降りて吐いたこともありました。

呼吸困難になりそうでも仕事には行かねばならない状況でした。

 

先日、友人とミーティングをしていた時

『僕は、まだ環境の都合もあって

死という体験をしていないんですが、

これからおじいちゃんやおばあちゃんなども

そういう歳になってくるのかな?これから僕は死を体験する』と

話したことに

 

ハッとしました。

私は、もしかしたら通常の人と比べることではありませんが

たくさんの死を経験させてもらってきているのかな?と思いました。

 

身近な人間がいじめや精神的なDVによる殺人。

本来事件になるであろう殺人や

愛する人が自ら命を落としてしまった死。

親友の病死や親族の病死や老衰もありますが、事故死。孤独死。

数時間前で一緒にいた生徒さんや恩師の突然死。

ずっと会えるのを楽しみにしていて来週会う予定だった先生を

交通事故で亡くしたこともある。

思えば、可愛がってもらっていた親戚のおじさんも交通事故で即死だった。

ゴルフという仕事柄だからあるわけではありませんが

あの日散々注意のサイレンがなっていたのに

隣のホールで雷に打たれ亡くなった方もいた…。

あの雷の音と煙と匂いも忘れられない。

忘れちゃいけない。

 

様々な死がありました。

私自身も本気で自殺を考え考え抜いて実行に至れなかったことがありました。

 

私にとって

今もなお大切な人の衝撃的な死は

立ち直ることができません。

 

それ以外の様々な死も。

 

その出来事と魂たちと

私は共に生き続けたいと思っている。

 

いつか天国で逢えた時

堂々と『がんばったよ!』とまっすぐに笑顔で向き合えるために生きています。

 

話がズレましたが

あの電車の事故は、人身事故ですが

私自身が人を殺してしまったことだと私は感じてしまうのです。

 

こんなことをいえば

『そんなことないよ、たまたま居合わせただけだよ』と言ってくださる方がいるかもしれませんが

 

私のカラダには、自らと言えども

【人の命が奪われる瞬間のあの衝撃】が切り刻まれ

いつでも癒えることなく残っています。

 

そして、これら様々な人の生きた証。死を、

私は、いつでもそれはいつでも感じられる。ようにしています。

逃げ出したくなる時、踏みとどまり冷静になることができるからです。

 

私は生きている。

 

私は、この体験をさせてもらったことが

いつか何か誰かの役に立つだけでなく

自分自身が、日々、自分の人生を生きていくために必要なことととして

捉えささせてもらっています。

 

 

だから、このように思うのです。

 

意図せず加害者となってしまったとしても保身には順序がある。

いや

自分自身で、保身などしてはいけない。

 

そのために、加害者には弁護士がつけられるのでしょう?

 

加害者には、ひたすら反省と謝罪を誠意を持って行って欲しい。

 

多くの意図しない加害者が犯罪者になってしまう瞬間、

それは、きっと家族のため、親戚のため、などでない。

よそ見やながら運転、高齢者ドライバー、疲労時の危険運転など原因があるにせよ

それを考えてしまう加害者の人間としての意識に問題があるだけでなく

そしてまたそうしなければならない社会のシステムにあり

そして更に、事実を捻じ曲げ逃げようとするねじ曲がった歪んだ思考に染められ

被害者をさらなる苦しみに沈めていくことを

多くの人が知ってほしい。

 

加害者になってしまうと、周りが保身には知らせるようにしてしまうことも多い。

大切な人を守るためには、事実を見極めて欲しい。

 

まず、誠意をみせるべきなのではないだろうか?

 

私は断言できる

人を殺めるということは、小さな力では無理です。

いくら打ち所がとは言えど

大きな衝撃を与えなければ、人は死なない。

 

それ以上の衝撃ないし、感触を加害者は知ってしまっているはず。

 

そのカラダに残った感覚を感触を無視できる精神はおかしい。

誠実に謝りたいのに謝らせない社会システムはおかしい。

本質が見えなくなっている人ばかりであると感じてならない。

不慮の事故であるにも関わらず、

保身に走ることをまずさせてしまう社会は、おかしい。

 

謝らない大人が溢れている。

ごめんなさいということが人生の屈辱に感じているのだろうか?

小さなミスも謝れない大人が多い。

 

時間に遅れても謝れない。

約束を間違えても謝らず言い訳をする。

口走ってしまった言葉を謝ることができない。

大切な言葉なのに、まず「ごめんなさい」が言えない。

 

だからこうなる。

 

間違えたと言えない。

困っていると言えない。

わからないと言えない。

助けてほしいと言えない。

間違えは許されない。

認めてもらえない。

 

どんどん、保身のため

自分自身の存在価値を保つため弱い者をいじめたり

嘘をつき続け関係のない人たちを巻き添えにしていく。

 

これは事故だけの話でなく

全てにおいての話。

 

まるで悪魔に囚われていくように

ごめんなさいが言えないことで自らだけでなく

周りの人、被害者までをさらなる苦しみに落としこんでいく。

 

苦しまみれにそのダークサイドに落ちていく人もいれば

それすら当たり前の悪魔のような人たちもいる。

 

その始まりにはこんなことがある

テストで間違えたら恥ずかしいことだ。

間違えは許されない。

他人様の目。

 

高度経済成長期の時代の背景に

親からの愛情を得られず育った世代。

点数だけをみて褒められた。

核家族家によって祖父母からの愛情も受けられず育った。

自分が愛情を受けられず育った結果

子供にはなんでもやってあげたいと思い

子供に子供のうちからなんでもやらせてしまう全てをかける教育をしてしまったり、

マンションが普及し、近所との付き合いもなくなった。

習い事や塾が当たり前になり、友達とガチンコで頭を使ってカラダを使って

心と心で響き合って遊んだりカラダを作る経験もできない世の中となった。

 

私はそんな風に今の世の中の出来上がりを考察している。

 

犯した罪は、謝りもせず、嘘をついてまでして

お金を積んで許されるのはおかしい。

 

全くもっておかしい。

 

そんなことになるから、別の悲しさが出て相当な罰を要求したり

残された遺族や被害者の家族は、逆恨みや近所の目から避けるような生活を強いられるのもおかしい。

 

どんな状況でも本質を見極める目を

子供達には養ってほしい。

 

もう、ほとんどの大人は、

本質などみえない世界に染まりすぎてしまったから。

 

長くなりましたが

最後までお読みくださりありがとうございました

 

 

私たちは、この期間に大きなチャレンジの船を漕ぎだしました。

それが、公に発表できるまでもう少し時間がかかると思います。

 

でも、そんなことをしていたのか?

という形で、みなさんの元にお届けできるのもよいかもしれませんね。

 

あなたがあなたらしく

あなた自身の人生を生きられますように!



この記事を書いた理由は沢山あります。


でもひとつ

追記しておくならば


起きた出来事(事実)とは、真っ向から向き合うことが必要だということです。


でもはじめのうちそこに恐怖や悲しみや怒りやたくさんの感情が付着しています。


直視できないことも徐々に

真っ向から受け止められるようになると

見えてくるものがあります。


感情を味わいながら

見受けられるものがあるでしょう。


その時

ヒトは、自分の足で立てるようなにるということを私は、これから先も

色々な体験をし証明しながら生きたいと思います。



 

深謝

 

松澤