チャップリンとウーナの次女ジョゼフィン・チャップリンさんがご逝去されました。 | 人間の大野裕之

人間の大野裕之

映画『ミュジコフィリア』『葬式の名人』『太秦ライムライト』脚本・プロデューサー
『チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦』岩波書店 サントリー学芸賞受賞
日本チャップリン協会会長/劇団とっても便利

チャップリンとウーナの次女ジョゼフィン・チャップリンさんがご逝去されました。パゾリーニ監督『カンタベリー物語』ではヒロインを演じられるなど女優としても活躍し、のちにはパリのチャップリン・オフィスでお父様の魅力を世界に伝えるために活動され、日本チャップリン協会の最高顧問も務めてくださいました。

僕がジョゼフィンに初めて会ったのは、2004年のことでした。 パリのチャップリン・オフィスを訪ねた時、僕は彼女の澄んだ湖のような瞳に魅せられました。それはお父様の瞳と同じく、本当に吸い込まれそうなほどの深さ、美しさでした。

2006年に京都でチャップリン国際シンポジウムを開催した時、僕はジョゼフィンにぜひおいでくださいとお願いしました。最初は断られたのですが、 日本のファンのためにどうかお願いしますと申し上げたところ、思いがけなく彼女はおいでくださいました。(チャップリン研究の大家であるデイヴィッド・ロビンソンさんは、「彼女はとてもシャイで、講演はほとんどしない。よくジョゼフィンに来てもらえましたね。大野はどんな魔法を使ったんだ?」とおっしゃっていたのですが、僕が最終的に来てくれた理由を本人に聞くと「だって、あなたは私に2回お願いしたから」とのこと。)

日本では黒柳徹子さんやデイヴィッド・ロビンソンさんとのトークに参加してくださり、お父様との貴重な思い出を語ってくださいました。

日本では楽しい思い出がたくさんできました。お父様が1936年に泊まった柊家さんでの滞在をとても楽しまれ、「私は今まで世界中のベストのホテルに泊まってきたけど、比べようもない、柊家は世界で最高のホテルだ」。金閣寺や竜安寺をめぐって、清水寺では「音羽の滝の水を飲むと寿命が伸びるのですよ」とお教えすると、彼女は微笑んで、「実は1970年に最初の夫とここを訪れたときに、夫がこの水を飲んだ後数年後になくなってしまったので、遠慮しとくわ」と。

お父様はえびの天ぷらが大好きで、日本でえびの天ぷらを1度に30匹食べたことで有名です。都ホテルのランチに行くと、1961年にお父様が泊まった名ホテルは、やはりチャップリンに因んでエビの天ぷらを2匹出してくれました。僕が彼女に、「これではちょっと足りないんじゃないですか、あと28匹いりますか」と冗談で尋ねると、「もちろんそれぐらいは食べられますけれども、今は結構です」。奈良に移動するとシルクロードの文化が残っていて、考古学者である夫のジャン=クロードさんが、目を輝かせて解説をしてくれたことが印象に残っています。

そういえば、彼女はお父様と同じ瞳とユーモアのセンスだけではなく、お父様と同じように奇跡を起こす人でした。彼女が日本に来る前の数日間はずっと土砂降りの雨でした。ところが、彼女が乗った飛行機が大阪の関西空港に着陸した途端に、さーっと雨が上がり、京都での四日間の滞在は素晴らしいお天気でした。 じゃあ、次に奈良に行きましょうということになって、自動車に乗った瞬間に雨がさーっと降りはじめ、土砂降りの雨の中40分間運転。しかし、奈良の東大寺に着いて、彼女がドアを開けた瞬間に雨がピタリとやんだのです。東大寺に参拝した後、興福寺に向かう途中歩きながら、「あなたはまるで天気の女神ですね」「どうして?」「だって、あなたが外を歩いている間は絶対に雨が降らへんやないですか」すると彼女は、いたずらっぽく笑って、「でも天気の女神もたまには雨が欲しくなるかもしれませんね」そう言った瞬間に突如雨が降り始めました。私は本当に驚いたのですが、よく考えると彼女の父は世界中を笑わせたり泣かせたりし続けているわけで、その娘が日本の1年の天気を変えるぐらいは簡単なことなんだろうと納得しました。

 

その時は奈良でも講演をしてくださり、その数年後には私はパリで彼女にインタビューをすることができました。ジョゼフィン本人によると、自分はインタビューや講演が嫌いで、今まで人生で4回しか講演をしたことがないのだが、そのうち3回は大野が聞き手であるとのこと。とても光栄なことです。

というわけで、お父様の思い出についてはたくさん聞かせていただきました。中でも印象的だったのは、「極貧の幼少を過ごし、あれだけ辛いことがあっても、父は本当に人間のことが好きだった、人間の優しさを信じていた」と言うエピソードです。 「人間はね、本当は優しいものなんだ。だって、もし風が吹いてお前の帽子が飛ばされてしまったとしても、きっと誰かを後ろの人が拾ってくれるだろう?」 とかねがねお父様はおっしゃっていたそうです。

他にも、小さい頃家族みんなでチャップリンの映画を見ていた時の話、黄金狂時代の撮影のトリックを聞いたときの話、パゾリーニ監督の話、父親としてのチャップリンの話、いちどだけチャップリンの未完の作品『フリーク』の台本読み合わせをしたときの話、などなど本当に多くのことを教えてくれました。

 

彼女はチャップリン・オフィスで、チャップリンのお父様の価値を守り高めていくことに本当に熱心でした。特にそれは厳しすぎるほどだったと思います。少しでもお父様の本質を捉えていない企画には絶対に許諾を出しませんでした。そんな中でも、『ライムライト』の世界初の舞台化と『街の灯』歌舞伎版(『蝙蝠の安さん』)などが実現できたのは、ジョゼフィンをはじめチャップリン家の皆さんのご理解、そしてお父様を次の世代へと伝えていきたいと願う気持ちに支えられて実現したものでした。 特に『街の灯』歌舞伎版は、2004年に初めて会った時からその企画を申し上げ、「うちの父は歌舞伎が大好きだった。ぜひリバイバルが実現するといいですね」とおっしゃってくれたジョゼフィンのおかげで、松本幸四郎さんと私の思いが 15年かけて結実したものでした。

 

日本から帰ってしばらくして、夫のジャン=クロードさんが体調崩され、介護に専念するために、チャップリン・オフィスでの任務を離れました。高齢の夫のために熱心に尽くす姿は、お父様チャップリンとお母様ウーナから受け継がれた愛の賜物でした。

御子息のチャーリー・シストヴァリスさんとも何度も日本にもきていただき、パリでもお会いしていますが、彼とも会うたびに、お母様ジョゼフィンのことをお話ししていました。チャーリーは、小さい頃から熱烈にお母様のことを愛していたと何度も話していました。

 

今月の13日にお亡くなりになった2時間後に、最期を看取った1人である弟さんのユージーン・チャップリンさんからメッセージが届きました。僕はなぜかその数日前から、ジョゼフィンのことをずっと考えていました。何かシグナルを送っていてくれたのでしょうか。

 

私たちは、この世でもっとも素敵な一人を失ってしまいました。本当に悲しいです。ジョゼフィン、私はあなたの素晴らしさ、優しさ、そして美しさを一生忘れません。あなたのことを心から愛しています。

 

大野裕之