追悼・福本清三先生 | 人間の大野裕之

人間の大野裕之

映画『ミュジコフィリア』『葬式の名人』『太秦ライムライト』脚本・プロデューサー
『チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦』岩波書店 サントリー学芸賞受賞
日本チャップリン協会会長/劇団とっても便利

福本清三先生に聞いてほしい、ある報告をするために、つい先日12/27にご自宅にお電話をしました。報告じたいは年明けでもよかったのですが、年の瀬の日曜日に電話をするという迷惑なことをしてしまったのも、今思えばお導きがあったとしか思えません。

ひとしきり思い出話も聞いていただき、長電話になってしまったので奥様に福本先生宛に、手紙を書きますと申し上げました。以下は、その時に書いた手紙で、カッコ内はここに載せるために修正しております。

 

***

 

福本清三先生

ご無沙汰しております。

あらたまってお便りするのも気恥ずかしいものですが、この機会にせめて感謝の気持ちを言葉にしたいと思いました。

思い起こせば、いまから14年前の2006年に「チャップリン 世紀を超える」というNHKの番組で、ご一緒しました。若い頃に、受け身を取らずに倒れるチャップリンの演技を見て、斬られ役の演技を研究したとおっしゃっていました。時代劇とチャップリンとの意外な関係に驚きました。

その後、2007年に(元映像京都の)岡原さん、(東映京都の)西嶋さんとのあいだで『太秦ライムライト』の企画が持ち上がり、西嶋さんのおはからいで東映京都で毎週のように「水戸黄門」の立ち回りを見学させていただきました。上野隆三さんや木下通博さんもお元気で、いろんなお話をしていただきました。映画村の「福本清三ショー」にも毎週通わせていただきました。

2008年からは殺陣も教えていただきました。最初は劇団とっても便利の団員有志で、そのうち公開で多くの若者に稽古をつけてくださいました。常に、次の世代に時代劇を継承することをお考えでいらっしゃいました。うちの劇団で一緒に時代劇ミュージカル(『信長とボク ボクのママ』)も作りましたね。出番のない時も、ずっと台本を読んでいらしたことが印象的です。若い世代のことをいつも気にかけてくださいました。一昨年に私たちのミュージカル(2018年11月の『カリスマのダンス』)の舞台を見に来てくれた時も、「若い人たちが一生懸命やっていて、自分が若い頃を思い出す」とおっしゃってくれましたね。

『太秦ライムライト』の準備中、私自身も、取材がてら、多くの時代劇で、仕出し(台詞のない出演者)で参加させていただきました(すべて西嶋さん、岡原さんのおはからいで、貴重な機会を得ました。これがなければ映画『太秦ライムライト』はありえませんでした)。なかでも印象的だったのは、福本先生が吉良上野介役でご出演された、『最後の忠臣蔵』です。寒い1月の夜中でした。2日にわたって、討ち入りのシーンの撮影があり、私も刀を抜いて走りました。極寒のなか、木下さんなどは「腰に二つだけカイロ貼ったら暖かいんや」と平気そうでしたが、私は20個ぐらいカイロを貼ってもあまりの寒さのために死ぬ思いでした。やっとの思いで家に帰って熱を出して寝込みました。「取材とはいえ、もう二度とこんなことはしたくない!」と思った瞬間に、寒さの中でも暑い中でも、この仕出しの仕事に誇りを持って50年以上続けてこられた福本清三先生や剣会の皆様のお顔が浮かびました。その時、ぜったいに『太秦ライムライト』は作らなければならない、と強く誓いました。これは、単に時代劇を描く映画ではない、誇りを持って人生を歩むすべての人々のための物語だとわかったからです。

しかし、なにぶん私は素人でしたので、製作はなかなか進みませんでした。その過程で、2011年には一度頓挫したことで、多くの方々にご迷惑をおかけしました。福本先生には大変なご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした。それでも、なんとか2013年に製作ができたのは、ひとえに福本先生のご人徳のたまものです。松方弘樹さんは「俺とオヤジ(近衛十四郎さん)で合計1000回はフクぼんを斬ってきた。ぜひやらせてほしい」とおっしゃいました。小林稔侍さんは、「1日しかスケジュールがとれないけど、福本さんのためにどうしても出たいから、大野ちゃん、1日だけの役を書いてくれ」と、みなさんからご連絡をいただきました。みんなが福本先生の映画を心待ちにしていました。

そのなかで、最後まで出演を渋っておられた福本先生の奥ゆかしさをいまも思い出します。「わしが主役なんか、そんなんあきまへん。アホなこと言いなさんな」とずっとおっしゃっていましたね。しまいには、道端でお会いした時に私が「福本先生、おはようございます」とご挨拶しただけなのに、先生は反射的に「アホなこと言いなさんな」と(笑)。あのころ、私はずっと先生に「アホなこと言いなさんな」と言われていました。福本清三先生が「5万回斬られた男」なら、私は「500回アホと言われた男」です!

2013年7月初めのこと、落合監督がロスアンジェルスから来日して、あらためて出演をお願いしました。先生は「2・3日考えさせてください」とおっしゃいました。もう監督も来られたし、引き受けていただけるものと思っておりました。東映京都の製作カレンダーにも9月から撮影と書いていました。ところが、2・3日後にお電話しますと先生は「あー、あの映画のことやけどな、やっぱりわしが主役の映画なんかありえへんわ。脇役で出させてもらうから、あんたの劇団の若い子でもええ役者いっぱいいるから、その子らを主役にしてくれ」とおっしゃったのです。

その時ばかりは、私はちょっと怒ってしまいました。「先生、じゃあ、やめますわ。これは先生が主演の映画なんです。若者が老いた斬られ役やれるわけないじゃないですか。先生がやってくれへんのやったら、お蔵入りでいいですよ!」「そんなん、今までも準備のお金かかってるんとちゃうんか」「ええ。でも、そんなのドブに捨ててもいいですよ。みんな先生が主演の映画を見たいんですから!」その時、先生はあわてて「わかった、もう一回考える」とおっしゃってくださいました。大先輩である福本先生に対して、僭越にも少し怒ってしまったことを、いまお詫び申し上げます。

それから数日経って、2013年7月17日の夜でした。私は西嶋さんと西院で飲みながら、なんとか福本先生に出演してほしいのですがとご相談しておりました。その帰り道、西大路の交差点で、先生のご自宅にお電話をいたしましたら奥様が出られて、「いま福本はウォーキングに行っています」とのことでした。

私は奥様に「福本さん、出演してくれますかね?」と申し上げると、奥様は「私もやってほしいと思っているんですけどね」とおっしゃっていました。実は、福本先生の知らないところで、私は奥様にずっと相談をしておりました。本当に奥様にはお世話になりました。奥様の存在なしにはあの映画もありませんでした。

その電話の途中、交差点に福本先生のお姿が見えました。奥様に「あ、いま、福本先生が歩いて来られたので、いったん電話きりますね。福本さんとお話しします」と言って、電話を切りました。

直後に、奥様が家の方向から走ってこられて、5000円札を福本先生の手に握らせて、「あんた、大野さんと、お茶でも飲んで、話して来ぃ」とおっしゃっていたのが聞こえました。

先生と私とで、ファミリーレストランに入って、コーヒーを飲みました。先生は「進むも地獄、引くも地獄、どうしたらええんや」とおっしゃり、私は全力でがんばりますからどうかお願いしますと申し上げました。あの時の先生の言葉、「あんたやから言うけどな、わしも、役者やってる限りは、本当は主役やりたいんやで。でも、わしなんかでええんか?」が忘れられません。先日もご自宅のあたりを通り、その言葉を思い出しておりました。

その日はもう観念していらっしゃる感じでした。翌日、東映から出演していただけるとのお電話をいただきました。無理を申し上げてすみませんでした。

撮影中は、重圧で寝られなかったというお話もお聞きしました。松方弘樹さんが演じるスターに「旦那、怖気付いたんでっか? えろう鈍りましたな」というセリフは絶対に言えないとのことで、清家先生と二人で俳優会館でセリフを変更するようにと1時間半話し合いましたね。「こんな台詞はよう言わん。仕出しがスターさんにこんなことは絶対いわへん。言うたら、わしは死んでしまう」「先生、仕出しがこんな台詞は絶対いわへんのは知っています。でも、香美山(役名)はこの最後のチャンバラに死にに来ているんです。すみませんが、死ぬ気で言うてください」と生意気なことを申し上げ、結局そのままのセリフを言っていただきました。

先生はあの時19回のNGを出されました。どうしてもおっしゃられなかった。同期の松方弘樹さんに。デビューからずっと主役の松方弘樹さんにあの台詞はどうしてもおっしゃられなかった。松方さんは、何度福本さんがNGを出しても、ずっとニコニコしておられ、「おい、どうしたんだよ、同級生!」と勇気付けておられました。忘れられない思い出です。

最後に海老反りを撮影したのは2013年9月23日夜中の1時10分でした。先生の驚異的な体力と集中力で映画は無事に撮り終えました。9月25日、クランクアップの日、花束をもらった福本先生に、私が「無事にクランクアップしましたね」と言うと、先生は「こんなもん、お蔵入りや」と茶目っ気たっぷりに冗談をおっしゃいました。

出来上がった映画を見た松方さんは、すぐにお電話をくれて「いい写真だね」とおっしゃってくれました。アメリカ、カナダ、フランス、イギリスをはじめ世界中で公開され、13個の賞を受賞。なにより、チャップリン家のみなさんがご覧になってくれて、絶賛していただいたのが嬉しかったです。チャップリンの息子さんやお孫さんとも来日されるたびに交友を深めていただきました。福本清三先生と東映剣会が世界の映画ファンのあいだで永遠に語り継がれます。

(この後、福本清三先生への重要な報告を書きましたが、割愛します。)

それからも『あのひと』の老人役、『葬式の名人』のヤクザ役などでご一緒していただきました。

私には夢があります。

いつか先生の主演作をもう一本作ることです。前から西嶋さんとも話していたのですが、ヘミングウェイの『老人と海』の翻案などはいかがでしょうか?先生の生まれ故郷の香住の海を舞台に、自然と闘い、自分と闘う気高い主人公を福本清三さんで見てみたいのです。

お体調を崩されているとのことですが、どうか養生なさってご回復の暁には、ぜひとも『老人と海』のご相談をさせてください。それとも、また「アホなこと言いなさんな」といわれるだけでしょうか?

それでは、また近いうちに。お大事になさってください。

2020年12月28日 大野裕之

 

***

 

夢に福本清三先生が出てきてくださいました。ちょっとお疲れでしたが、お元気そうで、いつもの他愛ない会話をしました。

発表前に近しいかたから御逝去の報を聞き、暗澹たる気分になりました。

まだ誰ともこの悲しみを共有できないのは辛かった。

あるいは、いっそ、このまま正式発表しなければいいのにと思いました。

夜中に起きてはニュースを確認して、まだ発表されていないと少し安心したりしました。

そのまま嘘だったということになればいい。

 

私はその気持ちのまま、東京に行って舞台の演出をしました。

リハーサル中、「どこかで誰かが見ていてくれる」という福本清三さんの言葉を思い出しました。

そして、福本さんがこのリハーサルを見ていてくれていると感じました。

ひとつひとつ、頑張ろう、と勇気がでました。

公演は無事に終了し、多くの拍手をいただきました。

終演の翌日、正式に発表されました。

東映の西嶋さんにお電話をかけて、お話ししました。

歌舞伎座の横にいたのですが、泣きじゃくりながら。

西嶋さんにもありがとうございましたとなんども言いました。

西嶋さんがいなければ『太秦ライムライト』もなかった。

作れてよかった。あのときに撮れてよかった。

やっと福本清三さんへの感謝とこの悲しみが共有できるひととお話しできて、ほんとうに涙がとまりませんでした。

 

福本清三先生、

本当にありがとうございました。

最高の俳優としての人生をまっとうされました。

どこまでもかっこいいです。最高です。

ほんまに最高です。

ありがとうございました。