岐阜での通訳 | 人間の大野裕之

人間の大野裕之

映画『ミュジコフィリア』『葬式の名人』『太秦ライムライト』脚本・プロデューサー
『チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦』岩波書店 サントリー学芸賞受賞
日本チャップリン協会会長/劇団とっても便利

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(私は古い人間ゆえ、ネット上でちゃんとした文章など書いてはいけないと思っていましたが、そんな時代でもなくなってきたので、今後自著に転載するかも知れない文章も随時掲載します。)

1961年7月にチャップリンは4度目の来日を果たす。戦前の1936年に来日した折、岐阜の鵜飼に感動した喜劇王は、戦後も鵜匠の技を見るために岐阜に立ち寄った。が、かつて闇とかがり火だけの芸術だった鵜飼は、戦後にはたくさんの提灯をつけた屋形船にのった酔客が芸者とともにどんちゃん騒ぎをしてみるショーに堕していた。
チャップリンは思わず「昔は鵜匠は芸術家だったのに今ではただの安っぽいショーだ」と嘆いた。同行した息子のマイケル・チャップリンによると、何一つ文句を言わなかった父が、来日中、悲しい顔を見せたのはこの時だけだという。
それでも好奇心おう盛なチャップリンは翌朝宿泊していた長良川ホテルにほど近い山下鵜匠の家を訪ねた。東京からガイドを務めていた与倉正明さんは、その日だけは、岐阜在住の旧知の通訳に電話をして臨時ガイドを頼んだ。岐阜新聞の企画で、先頃、当時一日だけガイドを務めた辻種子さんと一緒に長良川の鵜飼船に乗せていただいて、お話を聞くことができた。「二百十日ですが晴れて良かったですね」と辻さんは川岸で迎えてくれた。
48年前の7月に、「大スターとずっといると神経が疲れるので、今日は休みたい」と与倉さんから連絡を受けた辻さんは、7月23日の朝10時に長良川ホテルを訪ねた。映画のイメージと違って物静かな英国人は、はじめて会った通訳に対しても「どうぞ」と先に車に乗せる紳士だった。鵜飼についての説明を静かにお茶を飲みながら熱心に聞き、鵜をつなぐヒモが檜の繊維で出来ていることを聞いて、興味深そうに手に取った。説明を聞きながら川面を覗き込むチャップリンの姿は、好奇心旺盛で、まじめで、少し神経質な感じもした。それでいて、山下鵜匠の息子さんが「鵜飼のシーンを映画にしてください」と言ったとき、小声で「商業的だね・・タネコ、これは訳さないでね、シークレットだよ・・・」とニヤリと笑う茶目っ気もあった。
その後、辻は一行を尾関提灯に案内した。美しい岐阜提灯にチャップリンの妻ウーナは感嘆の声をあげた。辻さんは岐阜提灯との出会いがイサム・ノグチの「AKARI」を産んだことを説明した。チャップリンはノグチとは親友だったので、恐らくそのことは知っていただろうが、そんなことはおくびにも出さず熱心に辻さんの説明を最後まで聞いたと知って、筆者はあらためてチャップリンの奥ゆかしさに驚いた。
別れ際にチャップリンは辻さんにサインを贈呈した。わずか3時間ほどの短い邂逅だったが、48年たっても記憶は鮮やかなままだ。「よほど印象的だったのでしょうね」と88歳になる辻さんははっきりとした口調で語ってくれた。

筆者がお話を聞いた晩に御案内くださった岐阜新聞の方によると、岐阜市は川岸の道路には自動車を入れなくして、静かな闇を取り戻すなど、「ショー的な鵜飼」をやめて、昔の幽玄な鵜飼の姿に戻そうとしているのだという。チャップリンがもう一度見たらまた喜んでくれたかも知れない、そんな鵜匠の芸術を見ながら、チャップリンを御案内した方のお話を聞く。やや肌寒い風のなかでもぬくもりを感じる夜だった。

(C)Ono Hiroyuki 2009、禁無断転載。

*辻種子さんと大野裕之との対談企画は本日の岐阜新聞に掲載されました。