甲子園球場を賑やかせた彼は、
決勝で早稲田実業の「斎藤佑樹」に阻まれ、
優勝の栄冠を逃がした。
記憶に残るのは、
その「ハンカチ王子」こと
「斎藤佑樹」です。
その甲子園のマウンドでは、
ハンカチで顔の汗を拭うその甘いマスクに「黄色い声援」が飛び、
主役は間違いなく彼でした。
優勝を阻まれ、
人気までも持って行かれた
田中将大の心はいかなるものだったのでしょう。
卒業後の二人の歩む道は、
プロ野球と大学野球と違っていましたが、
4年後また同じ道を歩むようになってライバル心は再燃です。
高校生時代には、
ハンカチ王子の後塵を舐めた田中君がプロ野球では、
連続勝利の日本記録や楽天を日本一に引っ張り上げ、
大リーグ移籍で世間の注目を一身に集める
今や時代の寵児です。
一方、
日本ハムに入団した「斎藤佑樹」は、
肩を痛め、二軍落ちで、
今後一軍登録の可能性自体が危ぶまれています。
この違いがどうして起こったのか判りませんが、これも人生です。
明日のことは、誰にも判りません。
「斎藤佑樹」君も
一時は日本の寵児でアイドルタレント顔負けの
追っかけもあったということから、
一度は頂点を駆けていたことがあります。
多くの高校球児が、
日の目を見ずに去っていったのと
比べれば文句を言えません。
私達は、これまで、日の目を見ることもなく、
二人三脚で定年まで辿りついた還暦越えの年金夫婦です。
しかし、
定年まで「大過なく?」勤め上げ、
子供や孫に恵まれ、
適当に旅行にも行けるささやかな今の幸せを喜んでいます。
田中将大の160億円、日給にすると600万円だそうです。
税金で半分持っていかれるとしても、
300万円の日給は、
全く想像できないので別に嫉妬心も湧きませんね。
別次元の夢物語です。
2014.01.24 NO:534
【参考引用】
2006年、春の甲子園大会(第78回選抜大会)に出場。2回戦で関西高等学校を引き分け再試合の末勝利を収めるも、準々決勝で横浜高校に敗退。同年夏(3年時)の西東京大会では、決勝で三たび日本大学第三高校と対戦。延長戦の末サヨナラ勝ちを収め、夏の甲子園大会出場を決めた。同年夏の甲子園(第88回選手権大会)では、2回戦の大阪桐蔭高校戦で、プロ入り後にチームメイトとなる中田翔と対戦し、4打数無安打3三振に封じる。同大会で早実は26年ぶりに決勝戦に進出(荒木大輔を擁した1980年以来)。8月20日の決勝戦では、夏の甲子園大会で3連覇を目指す駒大苫小牧高校のエースに成長した田中将大との投手戦になり、延長15回でも決着がつかず、1969年夏(第51回選手権大会)の松山商業高校対三沢高校戦以来37年振りの決勝引き分け再試合となった。翌日の再試合でも斎藤は自ら先発を志願し4連投、最後は田中を三振に打ち取って13奪三振で接戦を制し、早実を初の夏の甲子園大会優勝に導いた。この大会の全試合で先発し、2回戦から決勝再試合までただ1人で投げ抜き、田中との投げ合いは甲子園大会の歴史に残るものとなった。この大会での投球回69、投球数948はどちらも一大会における記録としては史上1位。一大会における奪三振78は、1958年の板東英二(徳島商業高校)の83個に次いで歴代2位となった。
