私は在るはマインドを超えている | 恩寵と共にある

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今までのブログ等で、私は在るという表現をすることが何度かありました。

 この私は在るとか、本来の私とか真我、こういった表現にちょっと異を唱えるとか、からんでくる人もいて 、そういった私とかそのようなものが完全に無くなっていくのが悟り、ということをいう方もいます。

 

 

その主張も理解は出来るんですけれども、ただここではっきりとさせておかなければならないのは、私は在るといった時の私というものと、普段私たちがこれが私だと思い込んでしまい、思考や感情なりに巻き込まれてしまっているエゴとがマインドとか呼ばれる、ちっぽけな状態に陥ってしまってる私というものと、私が在るという時の私というのはイコールではないということを押さえておかなければいけないと。

 

 

ヒンドゥー教では真我を設定しており、そういったものに属する方は私は在るという表現をされるのに対し、仏教においては無我ということが根本であるということを言われておりまして、仏教の教え無我の教え、を強く主張される方は、それを支持される方というのは、私という表現をされるとそれは違う、まだそれが残っているうちはだめだ、というようなことを言われておりますが、繰り返しますが私は在るという時の私というものと、普段のちっぽけな状態の私というのは、区別しておく必要があると思います。

 

 

ですから私は在るということで私が残ってるとまだまだである、という主張される方は確かにその通りでもありますが、もう少し綿密な区分をしていただきたい、というのが本音です。

 

 

けれどもヒンドゥーにしろ仏教にしろ、思考や感情というものに巻き込まれてしまって、そういったことに右往左往している状態、マインドの虜になっている私というもの、これは本来は存在しない、幻想であり、そこにとらわれるのではなくそこを超えていく、という点においては一致しています。

 

 

そういった違いを強調するよりも、その共通項をしっかりと押さえておくことがより大切なのではないかと思います。

 

 

よくこの違いを強調して、 まだ真我であるとか、私は在るとか言ってるのは途上であるとか言う人もいますが、 そういったところをあまり強調しすぎても、 普段こうやって生活している上に置いての私たちにおいて大した意味はないと。

 

 

私は在るということがしっかりと確立していれば、私は在るということが明確になって、その状態で生きていく、その状態であることができれば素晴らしいことであって、まだ私はあると言ってるうちは云々ということを主張するよりも、ちっぽけな私というもの、エゴとかマインドというものに支配された状態の私を超えていくんだ、というところをしっかりと押さえておくことが大切ではないかと 思います。

 

 

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