仏教の瞑想では止(し)サマタと観(かん)ヴィパッサナー、という両輪があります。
サマタは心を止めて、ヴィパッサナーはその状態で観る、観察する、洞察をします。
特に修行などもせずに、心が止まる、想念が浮かばなくなる、という人たちがいるようです。
そういう人たちが目覚めているか、真に悟っているかといえば、仏教でいうと止の状態で、まだ途上の場合も多いように思えます。
ラマナ・マハルシは一点集中で想念が静まったヨーギーの例をあげています。
集中により長い間想念が静まっていても、深い意識に入る前に水のことを考えていたヨーギーは、心の停止状態から覚めた後、第一声が「水はどこだ?!」でした。
心が一時的に停止し、想念が浮かばなくても、根本的な解決には至っていないのです。
そして一時停止状態で「私はわかった。目覚めたのだ!」と思い込んでいる人も少なくないように思えます。
ただ止めるだけでなく、気づきを保ち、観察、洞察を深めることが根本的な解決につながります。
以前にもそのことを書きましたが、最近になってこのことを益々実感しています。