瞑想に30年ほど取り組んでいると、全く瞑想ができないということはありません。
瞑想初心者の頃はそんなことはありませんでした。
初めて瞑想を本格的にやってみたのは高校生の頃でしたが、瞑想センターというものに行ってみて、マンダラを目の前に座って瞑想しようとしていましたが、特にこれということもなくただ座って時間が過ぎるだけでした。
それからも足が痛い、背中が痛いなど肉体の苦痛や、ただ座っていることで退屈したりで、瞑想を始めてしばらくは瞑想になっていませんでした。
それでも取り組み続けていると、次第に体の苦痛も軽減し、瞑想していると心地よくなったり、色々と体験も起きたりして瞑想が楽しくなってきました。
瞑想中に起こる苦痛や退屈などを超えていくというのはわかりやすいですが、心地よさや体験も超えていく必要がある。
これがなかなかわかりにくく、それらにとらわれてしまう人も少なくありません。
瞑想してとても心地よくなったり、深い静寂がおとずれるのは確かに素晴らしいです。
ですがただそこに安住し、明晰さや気づきがないと、そこで終わってしまいます。
私も深い瞑想状態に至ると「良い瞑想になったな」と思い、浅いと「あまりうまくいかなかったな」と感じてしまっていましたが、肝心なことはそこではないと気づかされました。
深い瞑想状態に入ると、静寂の中にいて至福に満たされたりします。
ただそれは強烈な変性意識、トランス状態です。
真の瞑想はそういったトランス状態からも脱却していきます。
トランス状態は慣れればそれほど難しくなく入ることができ、強烈な体験ですからそこにとどまりたくなります。
そこで良しとする人がいてもいいですが、それは途上でその先があります。
トランス状態はいわば白昼夢のようなもので明晰さがなく、それをスペースアウトと呼んだりもしますが、真の瞑想はスペースアウトではなく意識が明晰で気づきがある状態です。
仏教では瞑想を止観、サマタとヴィパッサナーとに分けますが。サマタは意識を止めていき、その際強烈なトランス状態になったりしますが、ヴィパッサナーでは止まった状態でスペースアウトすることなく、そこから洞察を深めていきます。
瞑想して強烈なトランスに入りそこで満足したり、瞑想を達成した、と思いこんでしまう人もいたでしょう。
仏教においてはそのような勘違いをすることを強く戒めています。
瞑想をして最初の段階ではトランス状態に入るのもいいですが、いずれはそこから覚めていく必要があります。
私も瞑想が深い浅いということに一喜一憂せず、気づきが保てているかにより注意を払うようにしていこうと思ったのでありました。