母親との冷静な対話 | 恩寵と共にある

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昨日母親と久しぶりに会って話をした。カフェでお茶を飲みながら、最初のうちは取るに足らない日常の話しをしていたが、お茶を飲み終わって少ししてからおもむろに何かを取りだして、頼むからそれを読んで欲しいと言う。

 

 

実は私の母親はさる新興宗教を信仰しており、取り出したのはその教団の経典らしきものだった。

 

 

正直なところ私は母親が信仰している教団に決して良い印象を抱いてはいないが、個人の信仰をとやかく言えないし、母親がそこで熱心に活動することにとやかく言ってはこなかった。

 

 

しかし、私に対して信仰を押し付けてくるようなことについては話しが別である。

 

 

ここはハッキリさせておいた方がいいと思い、「正直なところ私はそれを読むつもりはないし、教団の施設に行くつもりもない」と言った。

 

 

母親に誘われて、何度か教団施設に行ったことがあった。だがそこでは本当の聖地で感じられるような崇高なものは全く感じられず、少なくとも本物ではないと強く思った。母親が信仰するのはともかく、私は決してその教団に入ることはないと自分でわかっていた。

 

 

そのことは今まで曖昧にしていたのだが、母親としては私に経典を読み、施設に赴いて、あわよくばそこに入って欲しいという気持ちがあったらしい。そのことが対話をしてわかった。

 

 

そこで私は「私は教団の施設に何度か行ったが、全く崇高なものなど感じられなかったし、組織的宗教に嵌る人達の様子を見てきて、自分は決してそういうものに属することはないと固く決意しているので、今まで曖昧にしてきたけどそのことをよく理解してほしい」というようなことを述べた。

 

 

今まではそこまでハッキリと言ってこなかったので、母親は少々ショックを受けていたようだったが、冷静に筋道を立てて説明をして理解はしてくれた。

 

 

母親は盲信的なところはなかったので、私も個人の信仰にとやかく言ってはこなかった。だが今回改めてあわよくば私にそこで信仰をして欲しいという思いがあることがわかったので、それにはキッパリとノーと意思表示をした。

 

 

こういった類の話しはなかなかデリケートであり、話しをしていくのが難しいのだが、私も母親もお互いに比較的冷静に話しができ、今まで曖昧だった部分が明らかになってよかった。

 

 

信仰の問題は得てして対話をしようとしても、冷静さを欠いてしまい、何ら建設的な議論ができないことも多い。私も一方的に母親の信仰を否定するのではなく、ある程度認めつつもここは譲れないということをハッキリと言えたのは良かった。

これが頭ごなしに否定したのでは、こちらの考えを認めてもらえなかっただろう。

 

 

母親に自分の意思をキッチリと伝えることができて、私も何かスッキリした。奥深いところにあるモヤモヤしたものが落ちたような気がする。久々の母親との会話だったが、今回はいつもに増して良い対話ができた。