ありのままでむきだしの自分 | 恩寵と共にある

恩寵と共にある

覚醒や目覚め、恩寵について分かち合う場としていきたいです。

私は1人でいるのが好きだが、人と接して色々と交流をするのも好きである。人と接することで見聞を広げることができるし色々と循環も起こるので、他者との交流は非常に大切だ。

 

 

上辺だけの関係性というのも世間では多いが、私はできるだけ本音やそれに近いことが言い合える関係性がいい。上辺だけ取り繕ってもそれにあまり意味を感じない。

 

 

そしてスピリチュアルな界隈では、同じ指導者についている人たちで集うとか、同じ教えを信じたり、実践している人たちで集まることも少なくない。同じような考えの人たちが集うのは至極当然のことではあるが、私個人としてはそういうことがあまり好きではない。

 

 

かつては私も同じ考えの人たちとばかり交流していた。同じような考えや信じるものが同じ人たちとの交流は確かに楽しかった。それにどこか安心感もあった。だがその時期の私は、狭い世界の中に閉じこもっていた。見聞が広まることも余りなかった。

 

 

そして同じような人たちとの交流を続けていると、意識やエネルギーが同調していき、悪い意味でみんな同じようになっていく。そして自分たちと異質のものを受け入れられず、排他的になっていく傾向がある。

 

 

私が望む関係性は、〇〇を信じている人たちとの関係性などではなく、そういうものを取り払った、素でむき出しの自分を出せる関係性である。そういう関係性がとても心地よい。だがそれがなかなかできないこともある。

 

 

昔からの知り合いでW君という人がいて、W君とは一時期はかなり突っ込んだ話もしたりして、私としては良い関係性を築けていると思っていた。

 

 

昨年か一昨年のことだったが、久方ぶりにW君から連絡があり、話でもしませんかと誘われた。私は喜んでW君との再開を楽しみにしていた。

 

 

場所はどこでもいいとのことだったので、我が家まで来てもらって、色々と話をした。久方ぶりに会うW君は見た目が以前とあまり変わらず、元気そうで何よりだった。

 

 

しばらく話していると、W君が「とても素晴らしいものがあるから、無境さんにも紹介したい」と言ってきた。

 

 

そういう類いの話はよくあるし、そのような時に私は最初から話をシャットアウトすることはまずない。どのようなものが世の中にあるのか知っておきたいというのもあり、話を聞いてみることにした。

 

 

W君は熱心に語っていたが、正直なところそこまで興味を持つ内容ではなかった。今ではどのような話をしたか全然記憶にない。ということは自分にとってどうでもいい内容だったのだろう。

 

 

それはそれで何ら問題はなく、またいずれ話をしましょう、ということでその時はW君と別れた。

 

 

数日後W君からLINEで連絡があり、「先日の話はどうでしたか?もっと詳しい話を聞いてみませんか、これこれの日に、これこれの場所でより詳細が聞けますが来られませんか?」というようなことが送られてきた。

 

 

私はもはやW君が紹介してくれた話には関心がなく、「申し訳ないけど会場まで行くつもりはない。そのようなことではなく、何も背景にない純粋な状態のW君と話したい」といった内容の返事をした。

 

 

それに対してW君は残念です、といった返事を返してそれっきりだった。別のことでLINEをした時に返事はしてくれたので、話をしようと思えばできそうだが、積極的にW君と連絡しようという気は失せてしまった。

 

 

W君の話は一つの例だが、このようなことは何度もあった。

 

 

個人個人はいい人だが、何かを勧めてこられると、人格や波動が豹変することがある。勧められても私自身が感心を持てばより話を聞いたり実践したりするが、これは違うとなれば話を聞いたり、実践したりすることはない。それにも関らず勧めてこられても、正直なところ困惑してしまう。

 

 

私もかつては自分の信じていること、実践しているものを他者に押し付けてしまっていた。今でも知らず知らずしていることもあるかもしれない。だが相手にその気がなければ無理強いはしないし、引く時は引く。だが信じ込みが激しいと相手の状態を理解することもできなくなる。

 

 

何かを信じたり実践するのはいい。だが私は何もくっついていないむきだしの自分を見失わないようにしたいし、他の人にもそのことを伝えたいが、これもまた押し付けにならないようにすることが大切なのでそれが絶対だと言うつもりもない。ただ共感してくれる人がいてくれればそれは嬉しいことだ。