人は目の構造上、必ず盲点が存在する。視神経が集まっているところには光を感じる細胞がないので、ここに集まった光は、信号として脳まで届かない。そこで脳では見えない、としてしまう。
私たちは見えているようで見えない部分が必ず存在する。それは視覚だけでなく、意識においても同じである。
よく他人のことは色々と見えても、自分のことは見えないと言われる。私も自分はこうだという思いがあっても、それと反対のことを言われたりして、「自分はこうだと思っていても、周りから見ると違うのだなあ」と感心することが時々ある。
そして私は問題点をよく指摘される。私は指摘されやすい方のようで、自分でも気づかなかった点や、薄々気づいていても無いものとしたいことなど、時にはやんわりと、時には手厳しくしてきされることがある。
そんな時は否定したくなる時もあって、反論してしまったり、態度に出てしまうこともあるが、基本的には相手の指摘を聞く。それによって盲点で気づけなかった点に気づけたりするし、それはとてもありがたい。瞑想しているだけでは気づけないことも多々ある。
完ぺきな人などいないし、自分に指摘をする人にも盲点があるから、こちらからはその人の問題点など見えることもあり、「あなたそうは言うけど、自分のこの点はどうなんよ?!」と言いたくなることもあるが、水掛け論になっても意味はないし、余程的外れでない限り、指摘されたことをありがたく受け取っておくのが得である。
的外れな指摘は受け流してしまうのがいいが、的確なものはこちらも耳が痛いのだが、近頃はその人が言っているというより、背景にある大きな存在ともいうべきものから指摘されているのだ、という思いがある。
そういう時はいったん抵抗が生じても、後々指摘を聞いておくことでよかったと思えることが多い。エゴからのものは受け入れがたいが、より高い次元のものからは自分の糧となる。
ともかく自分には盲点があるということを認めるだけでも違ってくる。盲点などないと思いこんでも、人には必ずある。