フーマン:それでは最初に、ブループリントとカルマの違いについて話そう。
魂のブループリントは、多くの生にまたがってデザインされている。輪廻転生のサイクル全体を通してデザインされていて、ある特定のデザイン、つまりブループリントが成就する様に創られている。
魂がそのデザインされたものを成就して完結すると、そのブループリントに描かれた全体像が完成するので、魂は輪廻転生の輪から抜け出す。
これはより高次のレベルに属するもので、つまり神のデザインだ。存在あるいは創造主によってデザインされたとも言える。魂が生まれた理由がそこにある。
ある種のパターンや体験、その存在特有の表現を成就する様にデザインされており、それはたくさんの生を通って完成されて行く。
それはちょうど、ある人が医者になろうした場合に例えられる。
その人は何年ものトレーニングが必要であり、それが成就して初めて医者になる様なものだ。
医者としてのブループリントが完結して初めて、その人はブループリントを体現した医者となる。
魂もそれと同じだ。
それがブループリントだ。
多くの生に渡っている。
究極の天命、究極の可能性の事であり、「そもそも何故魂が創造されたのか?」と言う、まさにその理由がここにある。
カルマとは、魂が現象世界に触れる事で創られていく出来事の事だ。
あなたがこの現象世界の中にいる時に創られる。
あなたがこの人生にやってきて、関係性や様々な体験、成功や失敗等、あなたが現象世界で触れる全ての出来事は、原因と結果の関係を生み出す。
ブループリントは、どの生においてもあなたの魂の基盤として既に存在している。
一方カルマとは、それぞれの生の中でその都度あなたが集めるものだ。
従ってそのカルマは、あなたのブループリントの成就を遅らせる事も、あるいはそれを早める事も出来る。
あなたがカルマに無意識だと、もっともっとカルマを集め続ける。そうしてそれによって魂のブループリントから逸れてしまう。
だから結局は、再びこの生に戻ってブループリントを成就する必要がある。
それが魂としての定めだから・・・。
しかし、カルマを通り抜ける事で賢くもなれる。
そうすればこの地上で生きる際に「これは本当の私ではない」「ここは私に必要な場所ではない」という事を、カルマが教えてくれる様になる。
だからカルマの法則は、あなたの意志の力がベースとなっている。
あなたの自由意志で、あなたが何をする必要があるかを選択する事で、カルマが創られる。
しかし魂のブループリントとは、「もともと本来のあなたは誰で、究極的にあなたはどの様になるのか」という事だ。
例えばOSHOとラマナ・マハリシは、エッセンスは同じだが違ったブループリントを持っている。
OSHOがどの様に光明を得たのかは、ラマナのそれとは非常に違っている。
そして彼らは、光明を得るまでに多くの生に渡ってたくさんのカルマを通り抜けて行った。
OSHOのカルマ、ラマナのカルマ、仏陀のカルマはそれぞれ非常に違う。
彼らの自由意志による選択としてのカルマが、それぞれ非常に違うからだ。
しかし究極的に彼らが成就したもの、それがブループリントだ。
魂のブループリントは、神の意志だ。
しかしカルマは、あなたの自由意志だ。
例えば私があなたに働きかける時、カルマにワークする事も非常に大切だ。
何生にも渡って「探求」をし続けていても、その人のカルマがブループリントと整合しないと、その人は何処にも到達しない。
カルマがあちらへ向いているのに、ブループリントが実際はこちらへ向いている場合、到達は不可能だ。
だからこそ人々にガイダンスを与える事が、極端に重要になってくる。
それなしでは、誰も本当には到達しない。
しかしあなたが私に従っても、何処にも到達しない。
あなたは、あなた自身に従う必要がある。
つまり、あなたの魂のブループリントに従わねばならない。
解るかな?
スピリチュアルの世界では、「全ては決まっている」という主張もあれば、自由意思を尊重する立場もあります。フーマンはブループリントは魂の基盤としてすでに存在しているが、カルマによってブループリントがわからなくなり、いらぬことをしてしまうようで、カルマへのワークが重要になると語っています。私個人はフーマンのこの主張にしっくりときます。
スピリチュアルの世界では、「全ては決まっている」という主張もあれば、自由意思を尊重する立場もあります。フーマンはブループリントは魂の基盤としてすでに存在しているが、カルマによってブループリントがわからなくなり、いらぬことをしてしまうようで、カルマへのワークが重要になると語っています。私個人はフーマンのこの主張にしっくりときます。