できるものならと言うのか。
信じるものには、どんなことでもできるのです。
するとすぐにその子の父は…『信じます。不信仰な私を助けて下さい。』マルコ9:23-24

幼いときから自分の子が悪霊にとりつかれ、現実的に見たら治るのは不可能やろと思うこと。

でも、そんな時イエスさまの話を聞いて子を持っていった。

イエスさまに半信半疑だったのかも。

自分はほんとに不信仰者。

初めの時はそっくりそのまま信じていた。

でも年を重ねていくと、環境をみたりして、落ちこんで信じれなくなってしまう。

でも、その中でも、信じる者でありたい。

信じる者。

イエスさまを信じる者にはどんなことでもできる。

主よ。

造りかえて下さい。
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして、わたしについてきなさい。マルコ8:34

自分を捨てるという事は、捨て続けるという意味だよね。

簡単な事ではない。

自分で決めた人生ではなくて、神さまが決めた人生に行くということやもんね。
それで、自分の十字架ってなんやろ。
重荷だよね。
十字架-CS、キッズ、KGK、賛美、新聞。

他にもあるかもしれない。

それら全てにおいて忠実が求められている。

不忠実者にとって、大変困難であることだが、必ず出来ると信じる。


主よいつもこの身と心をあなたに献げる者でありたいです。

あなたについていきたいですから、どうか導いて下さい。

一つ一つの事に忠実であれるようにして下さい。

主イエスさまのお名前によって祈ります。

amen。
私の目の前に卑しいことを置きません。
詩篇101:3

私もこういう者でありたい。

卑しいこと=低俗で下品なもの

ダビデはこういうものをいつもはねつけていた!

私の目の前に置くのは主である。

全ての物事、人との関係においても主を前に置く生き方。

そういう人の生き方は、その人の道がまっすぐになる。(箴言3:6)

主が前を行かれ、しんがりとなられる。(イザヤ52:12)

だから全てにおいて私の道を主に委ね、信頼する。

なぜなら、主が成し遂げて下さるから。詩篇37:5

愛する天のお父さま。
あなたに信頼する者とさせて下さい。

私の目の前に低いものを置かないように。

いつもはねつけていく者としてください。

あなたを置き、信頼していく生き方をさせて下さい。

この祈りをイエスさまのお名前によって祈ります。

amen。