悲しいと楽しいは、全然違うじゃないか、、、って、思うでしょ。。。
けれど、悲しみから楽しみも生まれ、楽しみから、悲しみも生まれる、、、
人生は、悲喜こもごも、、、って、昔から、言う、、、
人生を振り返って、悲しみを通り抜けたから、大きな喜びがあり、
楽しみや喜びの陰に、悲しみという不幸がしゃがんでることが、あった、、、
そんなの、仏教で昔から、言われてるじゃん、、、受け売りでしょう、、、って
思うかもしれない、、、でも、今、僕が書いてるのは、経典の字面だけを読んだ
お坊さんの言葉ではなく、僕自身が、今まで生きてきた中での、感想、、、
思えば、僕の人生は、悲しみに塗りつぶされていた、、、
けれど、幸せだと、思える時も、確かに、あった、、、
僕が、孤独に沈んでいた時に、手を差し伸べてくれた人を、僕は、忘れない、、、
今日、アジアフードショップからの帰り、マクドナルドが角にある交差点の隅(すみ)に、
物乞いのおばさんが、座っていた、、、昔は、よく、お金を与えていたけれど、いつの頃からか
キリがないので、上げるのをやめていた。。。交差点のそばの電車の停留場で、次の電車まで
10分の時間があった、、、停留場には蛍光板で、あと何分で電車が来るか、表示される、、、
電車が来るまで、あと5分、、、僕は、何かに引きつられるように、交差点の隅の物乞いの
おばさんに、目をやった、、、もしかしたら、本当に、お金に困っているのかも、しれない、、、
見ていると、誰も、彼もが、そのおばさんを無視して通りすぎていく、、、僕は、小銭入れから
少なくない量の小銭をつかみ、信号を渡り、その物乞いのおばさんが持っている紙コップに
小銭を入れた、、、何かの、インスピレーションだった、、、誰にも、ふりかえられないで、
物乞いにひとり座っている、おばさんは、妙に、自分と重なった、、、これが、おばさんの
ペテンでもいい、ままよ、と思って、小銭を紙コップに投げ入れた、、、
どこかで、時に、救いを叫んでる人が、いる、、、その人を救う、救わないは、君の自由、、、
けれど、君の中の魂が、何か、感じて、救わなきゃ、、、と思ったのなら、できるだけのことで
いい、してあげることだ、、、もちろん、この世のすべての物乞いを、救うことはできない、、、
これは、物乞いだけのことを、言っているのではない、、、誰かが、救いを叫んでいるとき、
まさしく、君の中の魂が疼いたのなら、それはまさしく、君がその人やものに何かすべき、
その当人だったのだ、、、君が、まさしく、その救いを差し伸べるべき、、、
そのとき、施(ほどこ)しを受けたものは、サンクス、と言う言葉しか、出てこない、、、
僕は、それを言う、、、なぜなら、僕は、そのときの施しを受けた人間の気持ちを、
知っているから、、、
この世のすべてが、他人だと思っていたときに、与えられた光、、、愛、、、
それを、僕は、知っている、、、
鬼武彦 拝