<再掲>『ノルウェイの森』論(下) | 鬼武彦天心のブログ

鬼武彦天心のブログ

命が燃え尽きるまでの、僕の記録です。

この文章は、2015年11月に亡くなった犬儒(けんじゅ)さんのH Pの

 

「本格派「当事者」雑誌」に掲載された僕のオリジナルの文章です。

 

谷口水夜(みずや)と言うのは、当時の僕のハンドルネームです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ノルウェイの森』論(下)~エロスと自由の狭間に落ちて


                           谷口水夜

 

 

 

 

 

村上春樹著『ノルウェイの森』(下) 講談社文庫 刊

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

 レイコさんは話をやめて煙草をふかした。

「ねえ、私、男の人にこの話をするのはじめてなのよ」とレイコさんは僕の顔を見て言った。「あなたには話した方がいいと思うから話してるけど、私だってすごく恥ずかしいのよ、これ」

「すみません」と僕は言った。それ以外にどう言えばいいのかよくわからなかった。

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(下) 講談社文庫 21ページ)

 

 

 

 

 これは、レイコさんが自分のピアノの教え子である、13歳の少女とペッティングしたときのことを、ワタナベ君に話した後の場面である。レイコさんも美しい13歳の少女に『本当にごめんなさい。先生がいなかったら、私どうしていいかわかんないの。私のこと見捨てないで。先生に見捨てられたら、私行き場がないんだもん』と言われながら、背中に手をまわして撫でられたり、ブラを取られて乳房を撫でられたりして、官能的な気持ちになったのだ。レイコさんはこの後少女にクンニリングスをされて、「やめなさい」と言ってもやめない女の子に平手打ちをして、やめさせるのだが、このことがあとで、近所の噂になり、レイコさんの2度目の発病の原因へと、繋がって行く。

 

 

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

『もう遅いの』って私は言ったわ。『あのときに全部終っちゃたのよ。一カ月待ってくれってあなたが言ったときにね。もし本当にやりなおしたいと思うのならあなたはあのときにそんなこと言うべきじゃなかったのよ。どこに行っても、どんな遠くに移っても、また同じようなことが起るわよ。そして私はまた同じようなこと要求してあなたを苦しめることになるし、私もうそういうことしたくないのよ』

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(下) 講談社文庫 32ページ)

 

 

 

 

 これはレイコさんが自分の旦那に、いまの近所の噂(少女とのことや前に精神病院に入院したことなど)による緊張に耐えられないので「引っ越ししましょう」と言うのだが、旦那が「1カ月だけ我慢してくれ」と言う。しかし、1カ月を待つことが出来なく、ある日ガスの栓をひねり睡眠薬を飲み、自殺を計る。その後病院で気付いたレイコさんは旦那に離婚を申し出る。旦那は「もう一度やりなおせるよ。」と言うのだが、それに対するレイコさんの返事が、上の言葉である。

 

 

 レイコさんもやっかいな少女に面倒を持ちかけられたものである。またレイコさんの旦那が、すぐに職場を辞めることができなかった気持ちも、よく分かる。しかし、結果的にレイコさんは、少女の仕掛けた罠による、近所の噂に堪え切れずに発病、入院してしまうのだ。まあ、普通の男には、職場をすぐに辞めるのは、無理な話しである。しかし、女であるレイコさんの本音としては、旦那に、迷わずその場で、引っ越しの同意をして欲しかったのだ。愛のために自分の仕事を捨ててと、引っ越しを迫ったレイコさんと、仕事をすぐに捨てられなかった旦那さんの間に、男と女の愛の対照性が表れている、と言える。

 

 

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

 レイコさんは足もとで踏み消した煙草の吸い殻をあつめてブリキの缶に入れた。

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(下) 講談社文庫 33ページ)

 

 

 

 

 レイコさんの几帳面なところが、さりげなく描写された場面である。これは、上のレイコさんの発病と離婚、結婚6年で子供も旦那も含め、すべてを失った話しをワタナベ君に話した後の場面である。

 一度、足もとで踏み消した煙草を、もう一度あつめてブリキの缶に入れるところに、レイコさんが自分の過去の忌まわしい思い出を話した後の、心の動揺が表れている。ブリキの缶に、改めて煙草をあつめ入れているところに、心の動揺を密かに静めようとしている、という風にも理解できる。

 

 

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

「ねえワタナベ君、英語の仮定法現在と仮定法過去の違いをきちんと説明できる?」と突然僕に質問した。

「できると思うよ」と僕は言った。

「ちょっと訊きたいんだけれど、そういうのが日常生活の中で何かの役に立ってる?」

「日常生活の中で何かの役に立つことはあまりないね」と僕は言った。「でも具体的に何かの役に立つというよりは、そういうのは物事をより系統的に捉えるための訓練になるんだと僕は思ってるけれど」

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(下) 講談社文庫 63ページ)

 

 

 

 

 これはある日、緑がワタナベ君に質問してはじまった会話である。

 仮定法現在と仮定法過去の違いなんて、高校の時に習って後、すべて忘れてしまった。ワルシャワで客と英語で話すこともあるが、日常会話で仮定法現在と仮定法過去の違いの知識が要求されることはない。大学で英語のリーディングでテキストを訳すのに、この二つの違いを特に意識する必要も少なかったように思う。

 

 

 ワタナベ君は言う。

「具体的に何かの役に立つというよりは、そういうのは物事をより系統的に捉えるための訓練になるんだと僕は思ってるけれど」

 そうなのかも知れない。だが、あまりそういう説明も聞いたことがない。数学の公式が現実の問題に対応するとき、どういう役が立つのか、という質問もよく聞くが、これもワタナベ君に言わせると「系統的に捉えるための訓練」ということになるのだろう。ただ、そういう説明を聞いても尚、あまり有用性を感じない知識ではある。

 

 

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

「ねえ、私にはわかっているのよ。私は庶民だから。革命が起きようが起きまいが、庶民というのはロクでもないところでぼちぼちと生きていくしかないんだっていうことが。革命が何よ?そんなの役所の名前が変るだけじゃない。でもあの人たちにはそういうのが何もわかってないのよ。あの下らない言葉ふりまわしている人たちには。あなた税務署員って見たことある?」

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(下) 講談社文庫 69ページ)

 

 

 

 

緑の洞察力の冴えが光る、彼女の発言である。確かに庶民にとっては革命なんて、迷惑なだけの話しではある。為政者が変るだけなのだから。日本の官僚機構というのも、戦前と戦後で何も変わっていないのだろう。

 

 

少し長いが、官僚に関連して、副島隆彦・佐藤優共著『小沢革命政権で日本を救え』(日本文芸社 刊)から、引用する。

 

 

(引用開始)

 

 

副島 6世紀からの「律令制」の伝統は、その後もずっと続いており、今の国家試験上級職になっている。だから、天皇の直接の家来である官僚という思想になりました。戦前の体制がアメリカによって叩き壊された後でもなお生き残ってのが日本官僚機構であり、その中でもとりわけ法務省と内務省(現在の総務省)の官僚たちです。裁判官たちは終戦直後にもいっさい責任を取らされなかったのです。

佐藤 そのとおりです。あの悪法といわれた「治安維持法」で、一方的に有罪判決を言い渡した裁判官たちは、皆生き残っています。

副島 そうですね。「特高」と国民から恐れられた特別高等警察官と、その上部団体である内務省は解体されて自治省になりました。残りは消防省とか労働省とか、厚生省などに分割されました。そして今、再統合されつつあるのが総務省です。総務省は戦前に”国家の神経”といわれた内務省(インテリア・ミニストリー)の復活を密かに考えています。

 しかし、まだ主役にはなっていません。彼ら総務省の官僚は、郵政省を併合して郵便貯金という国民のお金も、さらには電波通信・放送の許認可権限まで握りました。

 

 

(副島隆彦・佐藤優共著『小沢革命政権で日本を救え』 日本文芸社 52ページ~53ページ)

 

 

 

 

 これを読むと、国の為政者が変っても、官僚機構自体は生き残っていることが分かる。

緑の表現は、プリミティブなところもあるが、本質は突いているのだ。緑は引き続きワタナベ君に質問する。

 

 

「あなた税務署員って見たことある?」

 

 

 僕は、父が高校の教員をしていたので、家に税務署員が来たのを見たことがない。

ただ、副島隆彦著『ー私は税務署と闘うー恐ろしい日本の未来』を通して見えてくる税務署の姿というのがある。以下、同書から引用する。

 

 

(引用開始)

 

 

 なんでもかんでも税金(税目)にして法律でとおしてしまえば、それで正義だというのは間違った考えである。「税法の正しい解釈」と言いながら、国税庁・税務署の都合のいいように、どのようにでも解釈をして、強引な徴税をたくさんやっている。そのことを指摘して、国民に広く訴えようという言論人がいない。このことが徴税役人をのさばらせている原因である。現代の徴税請負人である財務省・国税庁の官僚たちのはなはだしい思い上がりが随所に見られる。税金は払える最小限度で納めればそれでいいのだ。

 

 

(副島隆彦著『ー私は税務署と闘うー恐ろしい日本の未来』 ビジネス社 78ページ)

 

 

 

 

 彼ら税務署員は、「経費を認める、認めない」と言う、法律上の権限はない。しかし実際には、あたかも彼らはお上から権限を貰っているかのように、「これは経費として認められませんね」とか言うのである。彼らは国民の首根っこを押さえて、普通なら集めていないような、経費の末端の領収書まで求める。しかし、必要経費というのは、経費として必要であれば、領収書などなくてもいいのだ。実際、それは最終的には裁判所の裁判官が判断することであって、税務署や税務署の職員が個人の家に上がり込んで「これは経費として認められませんね」とかいう権限はないのである。

 

 

 村上春樹というひとは、緑を通してかなり人生の問題をシンプルに、本質的に表現させている。犬儒氏によると、緑というのは村上春樹氏の奥さんがモデルだそうである。ただ、僕個人の感想を言えば、緑の表現形式からバグワン=シュリ=ラジニーシ(OSHO)などの神秘主義思想家の言動を連想させる。それは、後の緑の言動とか観察していると、よりはっきりして来るのである。

 

 

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

 その週の半ばに僕は手のひらをガラスの先で深く切ってしまった。レコード棚のガラスの仕切りが割れていることに気がつかなかったのだ。自分でもびっくりするくらい血がいっぱい出て、それがぼたぼたと下にこぼれ、足もとの床がまっ赤になった。店長がタオルを何枚か持ってきてそれを強く巻いて包帯がわりにしてくれた。そして電話をかけて夜でも開いている救急病院の場所を訊いてくれた。ろくでもない男だったが、そういう処置だけは手早かった。病院は幸い近くにあったが、そこに着くまでにタオルはまっ赤に染まって、拭いきれなかった血がアスファルトの上にこぼれた。

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(下) 講談社文庫 108ページ)

 

 

 

 

 

 

これは第八章の冒頭の部分だ。この章の中身は主に永沢さんの外務省の試験に合格した、就職祝いをレストランでハツミさんとワタナベ君と三人でするシーンが主要のテーマだ。終わりに直子への手紙の一部が紹介されて、終わる。

 

 

 この章にハツミさんが後に自殺することなども触れられる。ワタナベ君のハツミさんに対する憧憬のようなシーンも現れる。ハツミさんとのビリヤードの話しを通して、キズキのことにも言及される。永沢さんの就職祝いもハツミさんと永沢さんとの妙なやりとりで、変な雰囲気に終わる。

 

 

「拭いきれなかった血がアスファルトの上にこぼれた」という表現は、この章が深いところでえぐり取るような心の傷をテーマにしていることを、象徴しているのだと思う。

 

 

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

「俺とワタナベの似ているところはね、自分のことを他人に理解してほしいと思っていないところなんだ」と永沢さんが言った。「そこが他の連中と違っているところなんだ。他の奴らはみんな自分のことをまわりの人間にわかってほしいと思ってあくせくしてる。でも俺はそうじゃないし、ワタナベもそうじゃない。理解してもらわなくたってかまわないと思っているのさ。自分は自分で、他人は他人だって」

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(下) 講談社文庫 127ページ)

 

 

 

 

 

レストランで永沢さんの就職祝いに、ハツミさんとワタナベ君が会食している場面である。

 これに対してワタナベ君はこう応えている。

「僕はそれほど強い人間じゃありませんよ。誰にも理解されなくていいと思っているわけじゃない。理解しあいたいと思う相手だっています。ただそれ以外の人々にはある程度理解されなくても、まあこれは仕方ないだろうと思っているだけです。あきらめてるんです。だから永沢さんの言うように理解されなくたってかまわないと思っているわけじゃありません」(同書 127ページ~128ページ)

 

 

 まあ、特別なひと以外には理解されなくても仕方ない、と思っているのだから、ある程度は永沢さんの言う通りなのだろう。僕自身の考えを言うと、理解されなくてもいい、とは思わないが、理解されることは余りないだろうな、とは思っている。現実がそうなのだから、仕方ないと言えばそうだ。一般的な大衆が行う行動規範と違う規範を持っている人間は、自然とそうなるのかも知れない。

 もっともここでの話しの焦点は、ハツミさんにも永沢さんは「べつに理解されなくてもいい」と思っているのか、という話しになる。

 それに対して永沢さんは、下のように応えている。

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

「君にはどうもよくわかってないようだけれど、人が誰かを理解するのはしかるべき時期が来たからであって、その誰かが相手に理解してほしいと望んだからではない」

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(下) 講談社文庫 129ページ)

 

 

 

 

 これには僕も同感である。永沢さんの生き方は、嫌悪を感じるようなエリート意識があるのだが、彼の考えのところどころは、以外と納得して聞いてしまう。

 例えば、永沢さんの女遊びについて、ハツミさんは「傷ついてる」といい、「どうして私だけじゃ足りないの?」というのだが、その言葉に対して永沢さんは、

 

 

「足りないわけじゃない。それはまったく別のフェイズの話なんだ。俺の中には何かしらそういうものを求める渇きのようなものがあるんだよ。そしてそれがもし君を傷つけたとしたら申しわけないと思う。決して君一人で足りないとかそういうんじゃないんだよ。でも俺はその渇きのもとでしか生きていけない男だし、それが俺なんだ。仕方ないじゃないか」(同書 125ページ)

と言う。

 

 

 僕は、肉体的な女遊びはしないが、精神的に岡惚れするようなところがある。浮気というほどではないのだが、女性を見ると、渇きのようなものを覚えて、心が揺れるのを押さえることができない。嫌、押さえる、という抵抗さえ放棄したような、奔放な気持ちを持っている。ただその渇きの気持ちは、その場その場で処理して、あとに引くことはない。

 男が持っている性欲というのは、根強いものがあり、その処理方法はさまざまだろうが、各自がその性欲を完全に放棄することができないのは、普通の一般男性なら、否定する者は居ないだろう。要は、ひとにあまり迷惑を掛けない性処理というのが、より良い、と言えるのではないだろうか。

 

 

 基本的には、国が性風俗を規制する、というのには反対である。性処理は各自の自由意志に任せればいいのであって、国がとやかく言うことではない。漫画の性表現の規制とかいま、問題になっているが、国がそこまで世話を焼く必要はない。ほっとけばいいのである。あとは各自が決めればいいことだ。国がなんでもかんでも規制するから、日本の性表現は、だんだん歪んだものになるのである。海外とか、規制のすくないところでは、その性表現もあっけらかんとして、健康である。

 

 

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

ハツミさんより美しい女はいくらでもいるだろう。そして永沢さんならそういう女をいくらでも手に入れることができただろう。しかしハツミさんという女性の中には何かしら人の心を揺さぶるものがあった。そしてそれは決して彼女が強い力を出して相手を揺さぶるというのではない。彼女の発する力はささやかなものなのだが、それが相手の共震を呼ぶのだ。タクシーが渋谷に着くまで僕はずっと彼女を眺め、彼女が僕の心の中に引きおこすこの感情の震えはいったい何なんだろうと考えつづけていた。しかしそれが何であるのかはとうとう最後までわからなかった。

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(下) 講談社文庫 131ページ)

 

 

 

 

 これは前に出てきた、ピアノをレイコさんのところに学びに来た少女の話しとも、重なるのだが、さほどテクニックがある訳でもない、さほど美しい訳でもない、けれどひとを惹き付ける何か、というのは、村上春樹氏にとっては、繰り返されるべきテーマなのかも知れない。

 その時のワタナベ君にはわからなかったハツミさんの魅力を、それから十二年か十三年後に、ニュー・メキシコ州サンタ・フェの街でまっ赤な奇跡のような夕日を眺めていて、彼は理解する。

 

 

(引用開始)

 

 

 それは充たされることのなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであったのだ。僕はそのような焼けつかんばかりの無垢な憧れをずっと昔、どこかに置き忘れてきてしまって、そんなものがかつて自分の中に存在したことすら長いあいだ思いださずにいたのだ。ハツミさんが揺り動かしたのは僕の中に長いあいだ眠っていた〈僕自身の一部〉であったのだ。

 

 

(同書 132ページ)

 

 

 ユングの深層心理に出て来る元型のような、自分自身の心の一部を揺さぶるような何かが、ハツミさんにはあった,ということだろう。それは母性のようなものとも結びつくのかも知れない。少年期に充たされることがなく、これからも永遠に充たされることのないもの、と言えば、母性的な愛ではないだろうか。ひとはそれを生まれ落ちたときから希求して渇き、そして死ぬまでその渇きとともに人生を歩んで行くのだ。

 

 

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

 ハツミさんは─多くの僕の知りあいがそうしたように─人生のある段階が来ると、ふと思いついたみたいに自らの生命を断った。彼女は永沢さんがドイツに行ってしまった二年後に他の男と結婚し、その二年後に剃刀で手首を切った。

 

 

(同書 132ページ)

 

 

 

 

 僕には、ハツミさんのような魅力のあるひとが自殺をしてしまう、という展開に無理があるように思えて仕様がない。僕にとっては、自殺というのはどう理屈を付けたところで、美化できないものである。自殺を美化する気持ちが、村上春樹氏にあるのかどうかは定かではないが、自殺というのは一番卑怯な方法なのだ、ということを僕は強調したい。自分だけが、社会全体が背負っている重荷から抜け駆けして逃げ、自分が背負っていた荷物は他人に背負わせて、あとは野となれ山となれ、というのだから、これほど卑怯なことはない。この点だけは、村上春樹氏と相容れないものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

「それでね」と言ってから緑はトム・コリンズをすすり、ピスタチオの殻をむいた。「一人で旅行しているときずっとワタナベ君のことを思いだしていたの。そして今あなたがとなりにいるといいなあって思ってたの」

「どうして?」

「どうして?」と言って緑は虚無をのぞきこむような目で僕を見た。「どうしてって、どういうことよ、それ?」

「つまり、どうして僕のことを思いだすかってことだよ」

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(下) 講談社文庫 154ページ~155ページ)

 

 

 

 

 ワタナベ君らしい、ワタナベ君の会話である。緑には彼氏がいるので、自分のことを旅行先で思い出し、今そばに居てほしいと思った緑の気持ちが分からないのである。たまにこういうひとを見ることがある。理性的に考えるひとに多いのだが、理屈に合わないようなことは、理解できないのだ。世の中が不合理の訳のわからないもので支配されている、ということに思いの至らない、純粋と言えば純粋な人間が、ワタナベ君のように居るのだ。愛らしいと言えばそうだが、この現実の腐った世の中で生きて行くには、不都合な人間なのかも知れない。

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

「人生はビスケットの缶だと思えばいいのよ」

 僕は何度か頭を振ってから緑の顔を見た。「たぶん僕の頭がわるいせいだと思うけれど、ときどき君が何を言っているのかよく理解できないことがある」

「ビスケットの缶にいろいろなビスケットがつまってて、好きなのとあまり好きじゃないのがあるでしょう? それで先に好きなのどんどん食べちゃうと、あとあんまり好きじゃないのばっかり残るわよね。私、辛いことがあるといつもそう思うのよ。今これをやっとくとあとになって楽になるって。人生はビスケットの缶なんだって」

「まあひとつの哲学ではあるな」

「でもそれ本当よ。私、経験的にそれを学んだもの」と緑は言った。

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(下) 講談社文庫 209ページ~210ページ)

 

 

 

 

 これはワタナベ君が直子の病気の悪化のことを考えて元気がなく、緑がそんなワタナベ君を見て言った言葉だ。緑の特徴は卑近な身近なことから、人生の仕組みを見通してしまうところだろうか。確かに、人生の取り分というのは、ある程度決まっているのかも知れない。いいところだけ取って食べてしまえば、あとは美味しくないものが残る。シンプルだが、当を得た意見だと思う。

 

 

 この緑というのは、限りなく神秘主義的な考え方をする少女だ。僕は青年時代、インドの神秘主義思想家の導師(グル)のバグワン=シュリ=ラジニージ(後にOSHOと改名)というひとの本を夢中になって読んだ。彼ら神秘主義思想家というのは、実に日常の卑近な例で、深淵な真理を説いたりする。そこには理解というか、連想の間にある種のジャンプがある。それで理性的な考え方のするワタナベ君などは、理解できなかったりするのだろう。

 

 

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

「でも僕にはまだその準備ができてないんですよ。ねえ、あれは本当に淋しいお葬式だったんだ。人はあんな風に死ぬべきじゃないですよ」

 レイコさんは手をのばして僕の頭を撫でた。「私たちみんないつかそんな風に死ぬのよ。私もあなたも」

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(下) 講談社文庫 282ページ)

 

 

 

 

 これは自殺した直子の葬式を思い出して、ワタナベ君とレイコさんが会話しているところだ。

「私たちみんないつかそんな風に死ぬのよ。」というレイコさんの言葉が、読んでいる者のこころを揺さぶる。僕たちはみんな、そういう風に死ぬのだ。生きていることも、生きている意味もすべて虚無と化するような死とともに消え去って、跡形もなくなるのだ。そこには死後の再生も、救済の存在もゆるさない、村上春樹氏の死生観が表れている。僕らはどうせ死ぬのだ。死がすべてを奪い尽くすこの現実の中で、虚無と不条理に闘いつつ、僕らは生きているのだ。これがこの『ノルウェイの森』に一貫して流れているテーマだ。そこはかとない、春の日だまりのような休息は時にあるだろう。しかし、僕らにある日常生活とは、ぬかまりの中を冷たい雨に打たれながら行く、その行程の連続なのだ、ということに尽きる。

 

 

希望という言葉を、はるか遠くから眺める村上春樹という作家が、ここに居る。

そこに明日は、見えて来ない。







Copyright(c) 谷口水夜、2011

僕の作品リンク集