<再掲>『ノルウェイの森』論(上) | 鬼武彦天心のブログ

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命が燃え尽きるまでの、僕の記録です。

この原稿は、2015年11月に亡くなった犬儒(けんじゅ)さんのH Pの

 

「本格派「当事者」雑誌」に掲載された僕の原稿が、オリジナルです。

 

谷口水夜(みずや)、と言うのは、当時の僕のハンドルネームです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ノルウェイの森』論(上)~エロスと自由の狭間に落ちて


                           谷口水夜







村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 刊 

 

 

(引用開始)

 

 

「その手のことって私にはすごくよくわかるの。理屈とかそんなのじゃなくて、ただ感じるのね。たとえば今こうしてあなたにしっかりとくっついているとね、私ちっとも怖くないの。どんな悪いものも暗いものも私を誘おうとはしないのよ」

「じゃあ話は簡単だ。ずっとこうしてりゃいいんじゃないか」と僕は言った。

「それーー本気で言ってるの?」

「もちろん本気だよ」

 直子は立ちどまった。僕も立ちどまった。彼女は両手を僕の肩にあてて正面

から、僕の目をじっとのぞきこんだ」

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第一章 16ページ)

 

 

 

 

 依存という言葉がある。これは『ノルウェイの森』を最後まで読んだ感想だが、直子はワタナベ君を愛していた、というよりも、依存、していたのではないだろうか。

 

 

(引用開始)

 

 

「あなたが出張に行っているあいだいったい誰が私を守ってくれるの?私は死ぬまであなたにくっついてまわってるの?ねえ、そんなの対等じゃない。そんなの人間関係とも呼べないでしょう。」

 

 

(同書、17ページ)

 

 

 

 

 直子はその、人間関係とも呼べない間柄に、ワタナベ君となっていることに心を悩ませているのではないだろうか。これは一種の直感なので、特にどれを証拠に上げることもできないのだが、直子とワタナベ君のような人間関係を、依存、という視点で日常観察していることがあるので、ふと思った。

 直子はそんな依存の関係に自分が陥ることに、必死に抗っているようにも見える。もしかしたらそれは、ワタナベ君との関係に限らず、直子にとっての人生でのライフワークに近い問題だったのかも知れない。それは最期の自殺という、破局まで続く。

 

 

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

 いずれにせよ1968年の春から70年の春までの二年間を僕はこのうさん臭い寮で過した。どうしてそんなうさん臭いところに二年もいたのだと訊かれても答えようがない。日常生活というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろうが、それほどたいした違いはないのだ。

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第二章 27ページ)

 

 

 

 

 ここに、ワタナベ君の世界観が端的に現れている。彼にとって「日常生活」というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろうが、それほどたいした違いはないのだ。

 あるいはそれは、逆に彼の潔癖な性格の裏側となって表現されているのかも知れない。

ワタナベ君は、本当は偽善も偽悪も右翼も左翼も嫌いなのだ。けれど、日常生活、というレベルから見ると、それらはたいした違いも現れない陳腐なものとしての価値しかない、ということを、ワタナベ君はよく知っているのだろう。だから彼は、そんなゴミ溜めのような寮で、2年間も生活ができたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

 あるいは直子が僕に対して腹を立てていたのは、キズキと最後に会って話をしたのが彼女ではなく僕だったからかもしれない。こういう言い方は良くないとは思うけれど、彼女の気持ちはわかるような気がする。僕としてもできることならかわってあげたかったと思う。しかし結局のところそれはもう起こってしまったことなのだし、どう思ったところで仕方のない種類のことなのだ。

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第二章 50ページ~51ページ)

 

 

 ここにもワタナベ君の人生観が現れている。

 

 

「しかし結局のところそれはもう起こってしまったことなのだし、どう思ったところで仕方のない種類のことなのだ。」

 

 

 ワタナベ君にとって、起こってしまったことは仕方のないこと、なのだ。これは当たり前のようだがあっさりとそう言って実際に人生を生きているひとは少ない。多くのひとはすでに起きてしまったことをいつまでもひきずって、積んだり崩したり、ということを繰り返していたりする。

 あるいはワタナベ君もそうなのかも知れない。だが、少なくとも意識の上では、ワタナベ君にとって起こってしまったことは、どう思ったところで仕方のないもの、と片付ける事柄として、整理はついているのだろう。そこが彼の非凡なところでもある。

 

 

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

 死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第二章 54ページ)

 

 

 

 

 死は生の中にある。それは離ればなれのものではない。

 例えばそれはちょっと買い物に出掛けた身近な時間や空間の中にもひそんでいる。遠くのどこかに離れているのではなく、いま、ここ、この日常の中に死はひそんでいる。ただひとびとは、そんなことも忘れてただ、人生の闘いに明け暮れ、死をあたかもどこか遠くの果てしないいつかの存在として捉え、忘れているのだ。

 

 

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

 次の土曜日に直子は電話をかけてきて、日曜に我々はデートした。たぶんデートと呼んでいいのだと思う。それ以外に適当な言葉を思いつけない。

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第三章 56ページ)

 

 

 

 

「たぶんデートと呼んでいいのだと思う。それ以外に適当な言葉を思いつけない。」

 確かに、その後殆ど毎週のように会って、東京の街を歩き回るのだから、デートと呼んでもいいのだろう。だが、ワタナベ君にはいまいち、「デート」と言ってしまうことに躊躇いがある。恋人同士でもない、という間柄からか。

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

彼女はあいかわらずぽつりぽつりとしか口をきかなかったが、べつに本人はそれでかまわないという風だったし、僕もとくに意識しては話さなかった。

 

 

(同書、56ページ)

 

 

 あとの方で突撃隊が「あ、あのさ、ワタナベ君さ、お、女の子とさ、どんな話をするの、いつも?」と尋ねるのだが、「いずれにせよ彼は質問する相手を完全に間違えていた」というワタナベ君の独白がすべてを物語っている。ワタナベ君もほとんど直子と会話らしい会話をしないのだから、どうして突撃隊の質問に、答えることができよう。

 

 

「女の子とさ、どんな話をするの、いつも?」

 ワタナベ君が、直子と言葉少ななのも、訳があるのかも知れない。

この、直子と東京の街を言葉少なく歩き続けるワタナベ君の、二人の関係というのは、キズキという共通の親友でありパートナーの突然の自殺に寄る喪失、という共通のタブー(二人は過去の話を一切しない)から生まれた、奇妙な関係と言えるのかも知れない。

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

我々は二人で東京の町をあてもなく歩きつづけた。坂を上り、川を渡り、線路を越え、どこまでも歩きつづけた。どこに行きたいという目的など何もなかった。

 

 

(同書、58ページ)

 

 

「どこに行きたいという目的など何もなかった。」

 

 

 まるで、どこに行けばいいのかわからない、その後のワタナベ君の人生を象徴しているような一文である。直子という無限に反芻を繰り返す喪失の思い出は、この川を渡り、線路を越え、どこまでも歩きつづける二人の儀式にも似た行為を通して、ワタナベ君の中で大きくふくらんで行くのだろう。

それは、彼の一生を通して、繰り返されるのだ。

 

 

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

 僕は気が向くと書棚から「グレート・ギャッビイ」をとりだし、出鱈目にページを開き、その部分をひとしきり読むことを習慣にしていたが、ただの一度も失望させられることはなかった。一ページとしてつまらないページはなかった。

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第三章 65ページ)

 

 

 

 

 これは、ワタナベ君の独白なのだが、この『ノルウェイの森』自体も、「グレート・ギャッビイ」のように、どのページを開いてもつまらないページはない、と僕は感じている。

「グレート・ギャッビイ」は野崎孝訳で1957年、『偉大なるギャッビイ』と題して研究社から初版が出版された。2006年には村上春樹訳で、新書版が「グレート・ギャッビイ」と題して中央公論新社から出版されている(出典、ウィキペディア)。僕はこの二つの翻訳のどれも読んでいないのだが、同ウィキペディアによると、「現在ではアメリカ文学を代表する作品の一つであると評価されており、Modern Libraryの発表した20世紀最高の小説では2位にランクされている。」とあるから、さぞかし優れた作品なのだろう。いつか、日本から取り寄せて、読んでみたい。

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

 蛍が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じたぶ厚い闇の中を、そのささやかな淡い光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもいつまでもさまよいつづけていた。

 僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった。

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第三章 98ページ~99ページ)

 

 

 

 

 犬儒氏によると、この「蛍」というのは直子のことだそうだ。なるほど、言われてみると、その通りだ。ただ、僕はこの文章を何の予備知識もなく最初に読んだとき「ああ、人間が追い求めて、追い求めても尚、届かない、「幸せ」に似てる」と素直に思った。それは現代の都市化された、ただお金とモノを求めて彷徨する人類が、密かに見失ってしまった「生きる喜び」のようにも思える。

 あるいは、蛍はその人類と幸せの行方の両方を象徴していると言えよう。「そのささやかな淡い光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもいつまでもさまよいつづけていた。」という文章から、推量することができる。現代の人類の幸せは、「淡い光」の、「まるで行き場を失った魂のよう」なものなのかも知れない。ワタナベ君はその代弁者なのではないか。だから多くのひとに共感と感動を与えたのだろう。

 

 

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

 夏休みのあいだに大学が機動隊の出動を要請し、機動隊はバリケードを叩きつぶし、中に籠っていた学生を全員逮捕した。その当時はどこの大学でも同じようなことをやっていたし、とくに珍しい出来事ではなかった。大学は解体なんてしなかった。大学には大量の資本が投下されているし、そんなものが学生が暴れたくらいで「はい、そうですか」とおとなしく解体されるわけががないのだ。そして大学をバリケードで封鎖した連中も本当に大学を解体したいなんて思っていたわけではなかった。彼らは大学という機構のイニシアチブの変更を求めていただけだったし、僕にとってはイニシアチブがどうなるかなんてまったくどうでもいいことだった。だからストが叩きつぶされたところで、とくに何の感慨も持たなかった。

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第四章 100ページ)

 

 

 

 

 

 

 「僕にとってはイニシアチブがどうなるかなんてまったくどうでもいいことだった。」というのが鍵と言えば、鍵なのだろうか。ノンポリと言えば、そうとも言える。ワタナベ君にとって、大学という機構がどうなり、どんな主導者が上に立とうが、どうでもいいことなのだろう。

 もっとも、ワタナベ君は、ストを決行した連中が、機動隊の導入後、ストを終結したとも何とも言わずに、再開された講義に普通に出席し、名前を呼ばれると返事をし、ノートを取り、と普通に単位の習得に固執していることに、奇異の念を抱いている。

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

 これはどうも変な話だった。何故ならスト決議はまだ有効だったし、誰もスト終結を宣言していなかったからだ。大学が機動隊を導入してバリケードを破壊しただけのことで、原理的にはストはまだ継続しているのだ。そして彼らはスト決議のときには言いたいだけ元気なことを言って、ストに反対する(あるいは疑念を表明する)学生を罵倒し、あるいは吊るしあげたのだ。

 

 

(同書、101ページ)

 

 

 

 

つまり、ノンポリを罵倒していた彼らスト決行者の方がずっと「ノンポリ」だったと言える。大学の講義ができないように、彼ら自身がストを決行したのに、機動隊という「外圧」がかかると、手の平を返したように大人しくなり、講義に出席し、出欠の点呼に普通に違和感なく返事をするのだから、これを変節漢と言わずに、何と言うのだろう。

 ワタナベ君の方がずっと筋が通っていて、まじめにものを考えている人間と言えるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

「紳士であることって、どういうことなんですか? もし定義があるなら教えてもらえませんか」

「自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」

「あなたは僕がこれまで会った人の中でいちばん変った人ですね」と僕は言った。

「お前は俺がこれまで会った人間の中でいちばんまともな人間だよ」と彼は言った。そして勘定を全部払ってくれた。

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第四章 118ページ)

 

 

 

 

これは、ワタナベ君が永沢さんに質問して始めた会話の一部だ。

やりたいことをやる人間が多い中で「やるべきことをやるのが紳士だ」という永沢さんをワタナベ君は「あなたは僕がこれまで会った人の中でいちばん変った人ですね」と評価する。そうして永沢さんはそれに対して「お前は俺がこれまで会った人間の中でいちばんまともな人間だよ」と評価し、勘定を全部払うのだ。どちらもどっちということか。

 のちに、永沢さんはハツミさんとワタナベ君との会食で「俺とワタナベの似ているところはね、自分のことを他人に理解してほしいと思っていないところなんだ」(同書(下)127ページ)と発言している。もちろんワタナベ君は微妙に否定するのだが。

 それについては後にコメントする。

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

 緑はテーブルの上に置いた両手をぴたりとあわせてしばらく考えていた。

「どうしてもよ。ワタナベ君は煙草吸わないの?」

「六月にやめたんだ」

「どうしてやめたの?」

「面倒臭かったからだよ。夜中に煙草が切れたときの辛さとか、そういうのがさ。だからやめたんだ。何かにそんな風に縛られるのって好きじゃないんだよ」

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第四章 147ページ)

 

 

 

 

「何かにそんな風に縛られるのって好きじゃないんだよ」

 ワタナベ君の本質とも言える発言ではないだろうか。煙草が夜中に切れて苦しむつらさに比べれば煙草を止めたほうがいい、というのである。そういう理由で煙草を止められるひとは少ないのでは、と思う。ワタナベ君のワタナベ君らしいところではないだろうか。

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

「ある種の人々にとって愛というのはすごくささやかな、あるいは下らないところから始まるのよ。そこからじゃないと始まらないのよ」

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第四章 161ページ)

 

 

 

 

 これは緑の発言である。

あるいはそうかも知れない。あるいはそうでないかも知れない。けれど、この緑の発言には言い得て妙な、深い響きがある。セックスという形而下のことから始まる愛もあれば、精神的なふれ合いから始まる愛もあるだろう。けれど「ある種の人々」にとっては、愛というのは、即物的なものでなければならなかったり、するのかも知れない。マドンナの代表曲「マテリアル・ガール(Material Girl)」を思い出す。

 

 

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

 それはやさしく穏やかで、そして何処に行くあてもない口づけだった。午後の日だまりの中で物干し場に座ってビールを飲んで火事見物をしていなかったとしたら、僕はその日緑に口づけなんかしなかっただろうし、その気持ちは彼女の方も同じだったろうと思う。僕らは物干し場からきらきらと光る家々の屋根や煙や赤とんぼやそんなものをずっと眺めていて、あたたかくて親密な気分になってい

て、そのことを何かのかたちで残しておきたいと無意識に考えていたのだろう。我々の口づけはそういうタイプの口づけだった。しかしもちろんあらゆる口づけがそうであるように、ある種の危険がまったく含まれていないというわけではなかった。

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第四章 164ページ)

 

 

 

 

 村上春樹氏の描写力のすぐれたキスシーンだと思う。この火事見物で、普通なら手さえ握らないような緑とワタナベ君の関係がぐんと近付き、お互いに予期せぬ口づけをしてしまう。普通ならここから男女の関係が始まったりするのだが、緑とワタナベ君の場合には、この後も付かず離れずの関係が続くのである。さほどストイックとも思えないワタナベ君が、この後も長く、緑と性的な関係を

持たないのは、ほかのワタナベ君の不貞な性交遊から比べると、不思議なぐらいである。

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

「いちばん大事なことはね、焦らないことよ」とレイコさんは僕に言った。「これが私のもうひとつの忠告ね。焦らないこと。物事が手に負えないくらい入りくんで絡みあっていても絶望的な気持ちになったり、短気を起こして無理にひっぱったりしちゃ駄目なのよ。時間をかけてやるつもりで、ひとつひとつゆっくりとほぐしていかなきゃいけないのよ。できる?」

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第五章 238ページ)

 

 

 

 

 これは、レイコさんがこれからの直子とワタナベ君の関係について、忠告してる場面である。

レイコさんというのは、実に賢い女性である。緑の賢さは時に原始的でさえあるが、レイコさんの賢さはある種、賢母にもにて聡明な賢さである。ワタナベ君とは今後も直子を通して交友し、直子の死後も、ワタナベ君にとって大きな示唆を与える女性である。

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

「あのね、何も女の子と寝るのがよくないって言ってるんじゃないのよ。あなたがそれでいいんなら、それでいいのよ。だってそれはあなたの人生だもの、あなたが自分で決めればいいのよ。ただ私の言いたいのは、不自然なかたちで自分を擦り減らしちゃいけないっていうことよ。わかる?そういうのってすごくもったいないのよ。十九と二十歳というのは人格成熟にとってとても大事な時期だし、そういう時期につまらない歪みかたすると、年をとってから辛いのよ。本当よ、これ。だからよく考えてね。直子を大事にしたいと思うなら自分も大事にしなさいね」

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第五章 239ページ)

 

 

 

 

 これもレイコさんの、ワタナベ君への忠告である。

「ただ私の言いたいのは、不自然なかたちで自分を擦り減らしちゃいけないっていうことよ。わかる?」

自分を擦り減らすというのは、多分、ワタナベ君が女の子と無節操に寝て、自分の気持ちを擦り減らす(良心とか、良識とか)ことを言っているのだと思う。誰も、自分が女の子と無節操に寝て、それでいい、と思っている人間は居ない。こころのどこかでは、これではいけない、と思ってこころを擦り減らしているのだ。そのことをレイコさんは言っているのだろう。

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

 そりゃね、世の中にはもっともっと上手くバッハを弾く若い子はいっぱいいるわよ。その子の二十倍くらい上手く弾く子だっているでしょうね。でもそういう演奏ってだいたい中身がないのよ。かすかすの空っぽなのよ。でもその子のはね、下手だけれど人を、少くとも私を、ひきつけるものを少し持ってるのよ。それで私、思ったの。この子なら教えてみる価値はあるかもしれないって。もちろん今から訓練しなおしてプロにするのは無理よ。でもそのときの私のようにー今でもそうだけれどー楽しんで自分のためにピアノを演奏することのできる幸せなピアノ弾きにすることは可能かもしれいってね。

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第五章 254ページ~255ページ)

 

 

 これは、レイコさんがワタナベ君に向けて話す、昔の自分の人生を決定的に転換(破壊?)するきっかけとなった、自分の家に来たピアノの練習生の少女の話しである。

 この上の話しは、この小説全体のストーリを離れて眺めても、含蓄のある話しである。なるほど、上手にピアノを弾く子は居ても、自分を惹き付けるピアノの弾き方をする子は少ない、という話しは、日常の生活の中でも示唆する何かがあるのではないだろうか。テクニックとこころを惹き付けるアートは違う、ということだろう。

 

 

「自分のためにピアノを演奏することのできる幸せなピアノ弾きにすることは可能かもしれいってね。」

 

 

 これはレイコさんが先に「私は四つのときからピアノを弾いてきたわけだけれど、考えてみたら自分自身のためにピアノを弾いたことなんて一度もなかったのよ。」(同書(上)、248ページ)という言葉を受けている。テストをパスするためとか、課題曲だとか、人を感心させるためとか、そういうことにためだけに弾いていた、というのである。考えてみると、そっちの方が不幸かも知れない。

 賞を取ることも、自分の実力を試すために必要かも知れない。しかし、本当は自分のために、自分自身のためにピアノを弾ける方が、賞を取るよりも幸せな、ピアノ弾きなのだろう。そのことをここでレイコさんは語っているのである。

 

 

 

 

(引用開始)

 

 

「でもレイコさんは楽しんで年とってるように見えるけれど」と直子が言った。

「年をとるのが楽しいとは思わないけれど、今更もう一度若くなりたいとは思わないわね」とレイコさんは言った。

「どうしてですか?」と僕は訊いた。

「面倒臭いからよ。きまってんじゃない」とレイコさんは答えた。

 

 

(村上春樹著『ノルウェイの森』(上) 講談社文庫 第五章 277ページ)

 

 

 

 

 これは偶然だが、僕も前から思っていた意見である。若いときに戻るのは正直、面倒くさいのである。愚かだし、くだらない失敗を繰り返さなければならないし、世の中や人間に対する理解も少ないから、煩悶も多大なのである。

 

 

「きまってんじゃない」とレイコさんがあっさりと言い切っているところが、読んでる者の反論を許さず、心地よい。







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