今日は主体というものについて追求してみるのじゃ。
例えば人がものを考えた時、自分が考えたとか、自分の考えとか言うじゃろう。
思考というものは自分が主体となって考えるものであり、主体から自らの思考が起こるのであると、思ったりする。
しかし、瞑想をして少し上達すれば、思考は自分とか、主体なども無し、ただ流れて行くものであることに気がつくじゃろう。
自分の意志ではなく、思考しようと思いもしないのに、思考は勝手に流れて行く。
それを感じれば、思考とは自らが主体となって起こるものではないとわかる。
自分が主体となって思考が起こるのではなく、思考とはただ勝手に流れて行く。
そのようであれば、思考する主体とは、一体何であったのか、それを観察してみるのじゃ。
自分の意志ではなく、起こす事も無く、ただ勝手に流れて行く思考があり、それを感じたならば、主体とはただ自らの観念であったと気づくじゃろう。
思考する主体があってそれが自分なのではなく、思考はただ流れて行くのみであり、主体とはただそれに後からつけられた言葉とイメージに過ぎなかったと知るじゃろう。
主体によって思考があるのではなく、思考によって主体というものがイメージされたのじゃ。
それは思考だけでなく、感情や、感覚や、認識作用にも同じように観られるのじゃ。
そのように自らの思考や感情や感覚や認識をも、観察して見るのじゃ。