私は「福井大震災」に遭遇した | 鬼と猿のブログ

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越前鬼瓦工房
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大地は震い両手は地面を叩いた
私は走った。いや走ったと思う。しかし、おかしなことに私は両手掌で地面を叩いていた。
瓦工場の前には、天日干しの広場があって、その周囲に窯場があり、石炭や薪を入れる建物や乾燥場、物置などの建物が群がっている。
私はようよう広場に出て振り返ると一緒に仕事をしていた女性が出口で這いつくばっていた。
「危ない!」女性の腕を持って逃げた時、後ろから大音響と共に建物が倒壊、私ら二人を追って来た。タッチの差で下敷きになるところだった。
不思議なことに倒壊するときの轟音とは裏腹にくずれたあとは、物音一つもしなかった。
工場が潰れたところから「オーイ、オーイ」と声がした。一緒に作業していたもう一人も倒壊した工場の裏側に逃げて助かった。
「ああひどい地震やー」と嘆きながら見渡すと、群れを為していた建物全て潰れていた。
「助かったー」との安堵感で虚脱状態だった。

瓦工場近くには、大きな繊維工場があり、巾5.6間×長さ30間もある木造二階建てと、隣に鱗建(ノコギリ屋根)の建物がある。この木造二階建ての工場には従業員が20人ばかり居たが、これまた「バリバリー」と大音響と共にまるで捩れるように北の方から潰れかけた。私らは呆然として見ていたのだろう。すると、「助けてくれー」と男の声でハッと我に返った。ゴム草履を履いたまま声の方向にはしった。そのとき繊維工場の前の道路は、パックリ割れていて恐怖を感じた。
潰れた工場の二階にはまだ5.6人残っているという、男達が羽目板を割ながら、中にいるひとを助けようと懸命だった。私も闇雲に板を割り、ひたすら前に進んだ。木造の二階にいた女達は何とか助け出されたが、建物の下敷きになって一人犠牲となった。幸い隣の鱗建の工場は倒壊を免れたので、皆、怪我人もなく戸外に出たが、多くの女たちは我が身より家族を思ってか、泣いていた。
そしたら今度は、国鉄細呂木駅前が火事だという。近くなので、私も走って行った。
着いてみると北陸本線に沿って県道があり、駅前には数軒の家が立ち並んでいる、木屋と言う屋号の駅前茶屋が、潰れ火が出ていた。
6月28日、午後4時では農家で火を焚くことは無いが、此の茶屋の奥は旅館になっていて、風呂を沸かしていたところへ、地震で全壊し火事になった。
しかし、水も鳶口一丁も無く、燃えるにまかせる外なかった。
隣は日本通運の貨物倉庫で、比較的頑丈な建物だったので倒壊は免れたが、火に対処出来ない従業員2.3人が、荷物を運び出すのを手伝ってくれというので倉庫の中にはいったが、壁に開いてるネズミの穴から、隣の炎が棒のように吹き出していた。まるでアメリカ軍が使った火炎放射器と同じだ。
その隣は、元軍人の奥さんが開いていたお菓子屋さん、そして散髪屋さんと自転車屋さん、みんな焼けてしまった。
此の頃になってやっと、我が家はどうなっているだろうー、家族は無事なのか?
勤め先の工場は全壊したが、村の方を見ると不思議につぶれている家は無いようだ、急いで我が家に向かったが、途中に潰れた家が何軒かあり心配になった。我が家はどうか無事でありますようにと祈りながら走った。
着いてみると無惨や、前半分は潰れ後ろは傾いて止まっていた。我が家は潰れたものの、運よく家族は全員無事でよかった。
同じころ、村では子供が何人か死んだと大騒ぎしていた。村の子ども達7.8人が、暑かったので村を流れる巾一間程の小川で遊んでいたらしく、地震の時、大きい子らは、川から這い上がったものの、川沿いに建つ農舎の倒壊の直撃に遭い下敷きになったらしい。小さい子は岸に上がることも出来ず、川の中で蹲っていて助かった。何とも形状し難いことである。村中の人が出て鋸や掛矢などで、農舎を取壊し救出したが、無惨な姿でした。
そうこうしていると、福井工業学校へ通学している近所の生徒が帰って来た。彼の言によれば、いつもの通勤列車で福井駅を出て、丸岡を過ぎ、もうすぐ金津やなーと思っていた矢先に地震が来て、一列車諸共左側の田園に横転したという。しかし、幸いなことに、みな這い出して一人も犠牲者はないという。これが地震がもう5秒か10秒遅いか、列車のスピードがもう少し出ていたなら、竹田川の鉄橋だったらしい。大惨事になるところで運よく助かった!と肩を震わせていた。
みんな、よかったとよろこんでいたが、金津の町には火の手が上がっていたという。
村は子供が亡くなったので一所に集まり、まんじりともせず夜を明かした。