私は「福井大震災」に遭遇した | 鬼と猿のブログ

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越前鬼瓦工房
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はじめに
私達が住む此の大地、地球上で一番頼りになり、安全で安心できる処と思っている、いやそう思わなければ夜もおちおちねむれない。
しかし、層でないときもあるから怖い。怖いというのは直接生命や財産など脅かすからだ。古くから怖いものの譬えに"地震・雷・火事・親父"があり怖いものの筆頭は地震、最後の親父は近年権威を失墜したが、天変地異は今も変わらない。
いつ起きるかわからない地震、不安はあるが、今日明日は大丈夫だろうとたかを括っているのが私達の暮らしだ。
地震学の大森博士や学者によって、地震は段々と解明されつつあるが、学者といえども地震の予知はまだ出来てないと言われている。従来から鯰だ鰻だ鯉だと、なんだかんだ色々面白く騒がれているが極め手はない。
歴史を遡れば千百年前、清和天皇の御世、貞観大地震(869年)が発生し陸奥国に大被害をもたらしたがこのクラスの大地震や津波が、マサか平成の時代に東北地方を再び襲ってくるとは誰も思わなかっただろう。
平成23年の東日本大震災は皆さんの記憶に新しいと思う。しかし、昭和にもマサカの大震災が!
その"マサカ"のサカに私は出くわした。
昭和23年(1948年)6月28日あの"福井大震災"が発生したのだ。
あれから70年の歳月が流れ、当時社会の中堅を担っていた人達も殆ど鬼籍に入り、残んの人達も老耄、風景も当時を偲ぶ様子姿もなく人々の脳裏から薄れるとき、私が遭遇した大震災など、勿論論ずるに足りない。
極狭い話しになるが記憶の薄れぬ前に伝えたいと思う。
福井大震災は被害の割に限られた地域でした。
しかし、地震に出会った人々は生死をわけた大惨事、当時私は20才。
この年から成人式が始まったようだが、私にはその記憶はない。
話しは福井大震災の3年前、1945年8月15日、日本中の都市が焼き尽くされて第二次世界大戦は終戦になり、私は生家(旧金津町滝)へ戻った。
金津町滝には、二百年以上も続く瓦作りがあり、戦時中企業整備を免れた瓦工場がほそぼそと続けていた。それが敗戦を境に「さあ復興だ!」といわれても瓦職人がいない。そんなとき経験のない私でも来て欲しいと、村内の瓦工場に日雇いに出た。
それが切っ掛けで二年三年と続き四年目、瓦仕事にも慣れ何となく性分に合っている様な感じでしたが、特別将来の希望とか目的とかもなく、若さにまかせて瓦作りに勤しみながらの毎日だった。仕事の仕組みは今とは全くちがい、朝は早くから夕方は日暮れまで、長時間労働なんて考えたこともなく、只、言われるままの仕事をこなすのみだった。

そのときのこと
6月28日、当時夏時間(サマータイム)だったから瓦工場の昼食は12時半頃です。その日は荒地出しの機械を三人で行っていた。土練機で練った粘土(荒地)をもう一度ロールに通して荒地型に押し出し、一人が出てきた荒地を瓦のサイズに合わせて針金で切る、主に女性の作業でした。私は柔らかい瓦の原型を四枚重ねて、表の出入口に近いところから順に行儀よく並べて立てる作業をしていた。
時計を見れば4時、夕方までに予定の枚数が出来そうなので、一服しようと三人で話していた時、何かわからんが、体に異常を感じた。第六感だろうか人間は危険を感じた時必ず明るい方に向かうという、私もそうだった。
瓦工場は粗末な建物だったから広いにも拘わらず明るい、その中でも私が出入口まで一番近いところにいた。