2026年3月の高市総理のワシントン訪問に同行した内閣参与・飯島勲氏が、間近で見た総理の現場の姿を語った記事を読みました。一部を抜粋して紹介します。
“高市総理とトランプ大統領のテーブルは大体8人ぐらい座っていたかな。(一つ隣のテーブルに私の席があって見ていたんですが)驚くことに最初から最後まで、ずっとトランプ大統領と高市総理の2人がずっと途切れなく喋っていた。 高市さんは英会話ができるんだね、多分。だから通訳はもうずっと黙って座っているだけなの。
たまたまX JAPANの演奏になったから、高市さんが立って、その時の画像だけが流れちゃって……実際、前後(の映像)は流れてないですからね。カットしてその部分だけを流している。ある意味でそういうのは怖いね。批判する人は批判しますから。 小泉内閣以来、各総理大臣に同行していますけども、本当にびっくりしました。”
某新聞社の報道を見ていると、どうやら高市総理に対するアレルギーのようなものが透けて見えます。感覚的には生理的に合わない人間関係みたいなものなのか、いささか見苦しいと感じることもしばしばです。
記事の手法としては、現場の前後関係をスルーし、批判材料になりそうな箇所だけを切り取って叩くという偏ったものが見受けられます。総理が熊本の被災地を訪れた際のSNS投稿についても、「宣伝活動的だ」「滞在時間がどうこう」といった揚げ足取りに終始しており、「総理のことが嫌いだからこういう書き方になるのだろうな」と思わずにはいられない有様です。
政府を批判・追及するのであれば、例えば「熊本の地震被害に対する国の救済措置において、10年前の教訓がなぜ生かされていないのか」といった本質的な問題をもっと取り上げるべきではないでしょうか。これは与野党を問わず、政治家全体の職務怠慢だと言わざるを得ません。古今東西、地震災害は今後も各地で起こり得ます。体育館での雑魚寝によるストレスや、猛暑の中での車中泊。移動手段があるにもかかわらず、被災者が車中泊を選択せざるを得ない状況に追い込まれているのは一体なぜなのでしょうか。僕は経済効果が見えていない今の段階で高市総理を支持しているわけではありません。ただ、混迷を極める国際情勢の中で、日本外交が致命的なミスを犯さないよう、しっかりとした外交戦略を担ってほしいと願っています。そもそも総理大臣が一人で国内政治のすべてを行っているわけではありませんし、そうあるべきでもありません。それぞれの担当議員が適材適所でしっかりと職責を果たしてほしいのです。熱帯夜の熊本で、被災者が車内で窮屈な思いを過ごしていることを想像すると、自責の念に駆られるような肩身の狭いような思いがします。お粗末な政治家の発言や、見当違いなマスメディアの報道を見聞きするたびに、深い溜息が出るばかりです。
「強い経済」とは?
江戸から東京に変わった明治時代は近代国家造りの最先端として大きく様変わりしました。では現代なら、どうするべきなのでしょうか? 全国的に増える空き家、空きビルや地域需要が弱い公共物、ローカル線など様変わりさせる方法はあるではないでしょうか。先ず、国の最大の財産である、国民のやる気を起こさせる国造りから始める必要がありますね。
ウクライナは第二次世界大戦において、ドイツとソ連という強い力が激突する主戦場となった。イランはその戦争を支える補給線と資源の要地として、1941年に英ソの侵攻と強い介入を受けた。時代が変わった現代でも、ウクライナは再び戦火の前線に置かれ、イランもまた大国の圧力と介入のただ中にある。
この二つの国を地政学的に語られるのが人間社会なら、AIに未来を引き渡したらよい。私たち人類の未来に必要なのは、その現実を当然のものとして受け入れることではない筈だ。重要なのは、国家の論理より先に、人間の尊厳を守る倫理を世界が持てるかどうかである。日本の地政学はどうだろうか? 米国はどこを見ているのだろうか? 日本はロシアや中国と生産性のある関係をつくらないと強い経済は得られないだろうな。朝鮮半島の現状も大国任せではなく、日本は積極的な姿勢で向き合わなければならないと思う。
メディアの記事について別の話題になりますが、皇室典範改正を巡る議論を紙面等で見ているうちに、ふとある政治学者の論考が頭に浮かびました。それは、米国の右派と左派がもたらした「成功であり失敗」を説いたものです。簡単に言えば、左派は社会的な、右派は経済的な「個人の解放」を成し遂げたものの、それが成功したがゆえに、中間層の経済基盤や地域社会の伝統を破壊してしまったという指摘です。
そこで皇室典範の話に戻すと、皇室とは日本が長年培ってきた「伝統そのもの」だと僕は思うのです。皇室に生まれついた宿命的なあり方に対して、現代的な「人権」の尺度をそのまま当てはめる必要があるとは思わないのです。「養子」として迎えられることについても最終的には本人の意思に基づくものであり、皇族を離れる自由だってあるはずです。そこに「門地による差別」という現代的な議論を持ち出していたら、私たちが守るべき多くの「伝統」の基盤そのものが解体されてしまうのではないでしょうか。人はそれぞれの宿命的なものを背負って生まれてくるのだとしたら、それを見守る社会という側面もあるのだと思うのです。
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8月27日(木)12:10
社会の窓 211 右を向いたり左をみたり (北海道・ギルティ・酒・イエスマン・大気の川・皇室)
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