1960年代の「受験戦争」から始まり、2000年代の“ゆとり教育”、2010年代の“さとり世代”、そしてデジタルネイティブであるZ世代へと、若者を取り巻く環境は大きく変化してきました。 近年では「順位をつけない、あるいは強調しない」という、劣等感や自己否定感を過度に生まないようにする教育方針を採用する学校も出てきているようです。不登校問題など社会的背景も、この流れを後押ししているのでしょう。
イタリアには「学校は社会の縮図である」という考え方があります。多様性や対話力を育む場として学校を位置づけ、社会と教育を鏡のように捉える発想です。この考えは、僕は共感できるのですが他人に押し付けていいというものではありません。
デンマークでは90年代からデジタル教育が進みましたが、近年の幸福度調査では「個別最適化された学習が孤独感を生む」という声も増えています。そのため、共同作業を伴う教材を積極的に取り入れる動きが再び強まっています。
これらの例が示すのは、教育は社会の価値観と密接に結びつくものであり、時代に応じて形は変わるべきともいえるのではないでしょうか。
2年前にTBS日曜劇場で「御上先生」という現在の教育システムへの問題提起を掲げたストーリーのドラマが放送されましたが、現行の教育システムには多くの課題があるという背景が生んだドラマだと思います。 ただ、少子化が進み、経済規模も縮小していく日本において、必要なのは“強い教育”ではなく、「落第者を生まない教育と社会」ではないでしょうか。
前回のブログで紹介した「国際卓越研究大学の制度」は素晴らしい試みですが、最先端頭脳を集める競争では、日本の人口規模や経済規模では大国に追いつけません。 そこで日本に必要なのは「最優秀」ではなく「優秀」を多数育てる教育モデルだと考えます。僕は、義務教育のあり方を時代に合わせるというより、未来に向けて大胆に見直すべきだと思っています。
基礎学力を身につける期間としての小学校6年間を充実させ、その後の中学以降は、興味や適性に応じた選択制へ移行する。 そうすることで、“教え”と“学び”の分断が生じる前に、学習の方向性を個別化できるのではないでしょうか。
理解が追いつかないまま授業が進むと、まるで外国語を聞いているように「分からないところが分からない」状態に陥ります。 その結果、「自分はできない」という自己否定が生まれ、劣等感が社会に出てからも尾を引くことがあります。
それが興味や適性に基づく教育なら、能力や進度に差があっても、先に進む者に対して敬うことは有っても分断されるような意識は起きないでしょう。また、遅れても進む事で後続者が、先を行く者とは違う視点で新しい成果を生む可能性だってあるでしょう。 不向きな義務教育の延長線上にある拒絶反応を生む構造そのものを変えるべきだと思いました。
現代の教育現場や社会で生じている歪みの多くは、広い意味での“敗者”を生み出す構造にあと思うのです。負けてもやり返せる人ならば、それもモチベーション維持に変換できるかもしれませんが、それは強い意思を持つ限られた人です。逆に周りの環境から追い詰められた人が増えれば、それは家族や社会全体の負担も増え、負の連鎖が続く事に繋がります。
先日、東南アジア旅行に行った人から話を聞く機会がありました。彼は、そこには人間の理想的なストレスの少ない環境があると言っていました。お金の余裕が無くてもニコニコ笑って暮らしが出来て、細かいルールに縛られ事もなく、街で見かける人達はみんな幸せそうに見えるというような事を言っていました。
僕も東南アジアの国々では、経済的に豊かでなくても笑顔で暮らす人々が多いという印象はあります。 しかし「ストレスが少ない=幸せ」と単純化することはできません。 大切なのは、社会には多様な人達が存在し、その多様性を受け止める仕組みがあるかどうかなのではないでしょうか。
東南アジアの魅力を語った彼は、日本の社会は不寛容で暗いというような事を言いました。彼は日本の社会にどんな不満があるのでしょうか。
日本では「目的意識を持たず、競争するという意識を持たない生き方」を選択すれば、競争社会の蚊帳の外になります。それが理想的かどうかは、それぞれの価値観であって「だから、幸せ」とはならないと思いますが、社会全体で考えたら、それが良いとも思いません。ただ、それで住む社会が分断されてしまったらどうでしょうか?
現代社会では今、「良い子」「悪い子」「普通の子」に加え、その狭間に落ちる人が増えているように思います。 全体のバランス、又は寛容性が失われつつある社会で、狭間に追いやられる人が増える未来に、明るさがある筈はないのです。
憲法25条が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」は大切な事ですが、それは“生きる意味”や“社会参加”まで支えるものではありません。 憲法では権利の保障ですが、同時に誰もが役割を持てる社会構造が必要なのではないでしょうか。
僕は、日本は大国と肩を並べる器ではないと思っていますが、生活レベルの平均値は世界でも高く、地政学や現在の社会規模的で考えれば、未来の成長モデルを実現できる可能性を持つ国だと思います。
そこで僕が思ったのは、社会全体を“総勝ち組”にするという理想です。「負け組のない社会」です。AはBに勝つがCに負け、CはDに勝つがEに負け……というように、勝敗が一方向に並ぶことのない循環する状態こそ、多様性が活きる社会の姿です。 誰かが常に負け続ける構造を作らないことが重要なのです。
競争すれば強い者が勝ち、弱い者が負ける。 負けても立ち上がれる人ばかりではありません。 その結果、人生の狭間に落ちた人を「生活を営む権利」で支えるだけで良い筈はありません。ストレスが少なくても経済成長できる社会が実現すれば、今より良い景色が見えるはずです。以前にブログで書いた、社会の窓179 新日本列島改造論の中で書いた社会システムは100年後の未来を創造したものですが、最先端の競争というのは無くなるものではなく、強い競争力が必要で、時には戦争にも直結する事です。そこで日本は上手く立ち回る器用さを活かした未来の社会モデルを作っていけたら強い影響力を持つ国になれるでしょう。それで世界平和に貢献できたなら素晴らしいじゃないかと思いました。
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Window of society 21 "community cat" ~野に生きる猫~
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6月4日(木)12:10
社会の窓 206 右を向いたり左を見たり 「文部省・水道料金・サバ」
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