隠れ名盤 世界遺産 16 「メイク・アップ」(フラワー・トラベリン・バンド) | 「道草オンラインマガジンonfield」[別館]

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メイク・アップ

(フラワー・トラベリン・バンド)

MAKE UP(FLOWER TRAVELLIN' BAND)

1973年作品

 

早熟ゆえに過小評価されてきたFTB、70年代最後の雄叫び。

30年以上たった今も「あんたら凄いよ」と言いたい

 

 和製ロック黎明期の伝説的なバンドであり、今もって日本最高峰のロックバンドと言い切ってもいい、フラワー・トラベリン・バンド(以下、FTB)を紹介したい。彼らがアルバム「エニウェア」でデビューを果たしたのは1970年10月だが、そのルーツを辿れば、68年ごろに遡る。しばし、往時の状況を振り返っておきたい。

 

 当時はベンチャーズ旋風(65年ごろ~)、ビートルズ来日(66年)の余韻が残るなかで、日本でも数々のエレキバンドが登場し、それらはグループサウンズ(以下、GS)と呼ばれて一大ブームを起こしていた。68年はGSブームが頂点を極めた年とされ、日本武道館を満員にして主演映画も封切られたザ・タイガース(沢田研二、現・岸部一徳、岸部シローなどが在籍)を筆頭に、ザ・スパイダース(堺正章、井上順、かまやつひろし、井上堯之、大野克夫などが在籍)、ブルーコメッツ(ジャッキー吉川、三原綱木、後の井上大輔などが在籍)、ザ・テンプターズ(萩原健一などが在籍)らが黄色い歓声を浴びていた。

 

 その傍らで、歴史に名を残すようなシングルヒットに恵まれず、人気の面でもトップアイドルの一角に食い込めずにいた“B級GS”も数々いた。FTBを構成したのは、そんなB級GS出身の面々である。メンバーはジョー山中(ボーカル、4・9・1=フォー・ナイン・エース=出身)、石間秀樹(ギター、ビーバーズ出身)、和田ジョージ(ドラム、フラワーズ出身)、上月ジュン(ベース、タックスマン出身)の4人で、結成を促したのは後にプロデュースを務める内田裕也であった。

 

 内田裕也は和田ジョージも在籍したフラワーズのリーダーで、フラワーズのボーカルを務めていたのは、麻生レミである。後に、嵐の後楽園球場(71年7月)伝説が残るグランド・ファンク・レイルロード公演で前座に出た女性ロッカーとしても知られる。69年11月には、フラワーズにジョー山中、石間秀樹が加入する形でFTBの原型が誕生。翌70年1月に開催された「第2回日本ロック・フェスティバル」では、参加アーティストに「内田裕也とフラワーズ」、「麻生レミ・オール・スターズ」の名前が別々にあるため、少なくともこの時点で麻生レミはフラワーズから離れ、フラワーズの方はFTB誕生前夜を思わせる状況だったのだろう。

 

 グループの離散集合にやや話が傾いたが、FTBの4人は、アイドル志向の強いGSのなかでロック志向が強く、音楽性の面でも秀でた才能を持っていたのだと思う。王子様のような衣装や振り付けを強いられるGS世界に嫌気がさした面もあったろう。GSの遺伝子を持ちながらも、歌謡曲的な世界とは明確に一線を画した本格的なロックバンドは、生まれるべくして生まれたといえる。

 

 「フラワー・トラベリン・バンド」の名で初めてステージに立ったのは、70年4月に神田共立講堂で開催された「第1回ヘッド・ロック・コンサート」であった。頭脳警察のデビューステージとしても知られるフェスだったが、ここでFTBもまた、日本人離れしたジョー山中の超絶ボーカル、メンバーの高度なテクニックで観客の注目を浴びたことと思う。このころはもっぱら海外ロックのコピーに徹していたようだ。その名残はデビューアルバム「エニウェア」にも色濃く残っており、ここにはキング・クリムゾンの「21世紀の精神異常者(現タイトル「21世紀のスキッツォイド・マン」)」や、アニマルズの「朝日のあたる家」などが収録されている。

 

 ただ、デビューアルバムが発売された70年10月ごろには、すでにFTB独特のオリジナルなサウンドへ、大きく方向転換を図っていたのも確かである。石間秀樹が考案した、東洋的な旋律を使ったサウンドへの変身だ。これにジョー山中のハイトーンボーカルが絡みつき、歴史的な名作「SATORI」(71年4月発売)が生まれた。東洋的と言っても、それはインド的と言い換えることもでき、ラーガ奏法と呼ばれたわけだが、ジョージ・ハリスンが親交を深めていたラヴィ・シャンカールの影響が有形・無形にあったのかもしれない。

 

 2ndアルバム「SATORI」は大きな驚きをもって迎え入れられた、と記憶している。日本にも本格的なロックバンドが生まれた、こいつらはただ者ではない、と。もしリリース当時に国内でコンサートを開いていれば、大きな伝説が生まれていたことだろう。しかし不幸だったのは、代表作ともいえる「SATORI」が発売された71年4月、FTBは日本におらず、カナダの安アパートで4人が共同暮らしをしながら、ひもじい思いをしていた。

 

 事の起こりは、70年に大阪で開催された日本万国博覧会だった。「エニウェア」リリース前のFTBも万博で7月半ばにステージに立ったのだが(農協の団体さんがポカンとするような熱狂的なステージだったとされる)、同じく万博で演奏するために同時期に来日していたカナダのロックバンド、ライトハウスに注目された。内田裕也がその縁を活かして海外進出を企て、本人たちもこれに同調。70年10月、サンケイホール(大阪)でサヨナラ公演という名の壮行コンサートを行った後、同年12月、FTBの4人はカナダへ渡ったのである。

 

 ちょうどこの頃は、日本のバンドがロックを日本語で歌うべきか英語で歌うべきか、という大論争が巻き起こっていた時期である。この喧嘩を仕掛けた格好となった英語派の内田裕也にしてみれば、「ロックは英語に決まっている。英語圏で日本のバンドが一旗揚げることで、論争に決着できる」という思いもあったのではなかろうか。

 

 ともあれFTBの4人はカナダへ渡ったのだが、ライトハウスにくっついていたカナダ側の世話人がワルだったらしく、結果的には騙される格好となった。カナダの安アパートには揃うはずの楽器が届かず、ユニオンに加入が認められるまでの半年間は演奏活動すらできない状況で、帰りの切符を手放して換金したり、親からの仕送りで食いつなぐ日々だったという。「SATORI」は、カナダでの貧乏暮らしの真っ最中にリリースされたということになる。

 

 ようやくユニオンへの加入が認められ、大学などでのコンサートを始めたわけだが、FTBのライブは現地で好意的に迎え入れられた。「SATORI」は日本のほかアメリカやカナダでも発売されており、アメリカでの評価は不明だが、少なくともライブを重ねたカナダでは評判を呼んだ。ジョー山中は黒人、石間秀樹は中国人、和田ジョージはインディアン、上月ジュンはフィリピン人に見えたそうで、そんな多国籍バンドが東洋風の無国籍サウンドをかき鳴らすわけだから、評判にもなろうというものだ。時には、メインアクトを務めるライトハウスを食うほどの注目を集め、アルバム「SATORI」はカナダチャートで8位、シングル「SATORI partII」はトロントのローカルチャートながらトップ20位入りしたという。

 

 この間、ライトハウスのメンバーの1人がFTBを支援する形でプロデュースを買って出、カナダ録音の3rdアルバム「メイド・イン・ジャパン」が制作された。このアルバムには冒頭、地元カナダのラジオDJがエマーソン・レイク&パーマーの「ラッキー・マン」をBGMにFTBを紹介する様子も使われている。「SATORI」とともに代表曲として知られる「KAMIKAZE 」や「HIROSHIMA」などが収録された、これも名盤である。

 

 1年4か月間に及んだカナダでの活動を終え、現地での高い評価や新作「メイド・イン・ジャパン」の完成を手土産に、FTBは72年3月に帰国。ただちに凱旋公演が組まれ、日本のファンは大きな賛辞をもって熱狂的に迎え入れた。4人も鼻高々ではあったろうが、同時に、日本の音楽産業界における和製ロックバンドへの評価の低さに、苛立ちを感じた時期でもあったろうと思う。

 

 というのも、彼らがカナダへ渡航していた1年半の間に、日本の“洋楽的音楽”の世界は大きく様変わりしていたのである。70年当時であれば、ウッドストックの影響もあってロックがいよいよ華々しく日本でも花開くと見られていたフシがあるが、結果的に日本人の間で最初に大衆化した“洋楽的音楽”はフォークソングだった。

 

 シングル盤では「走れコータロー」(ソルティシュガー)、「花嫁」(はしだのりひことクライマックス)、「知床旅情」(加藤登紀子)、「出発の歌」(上条恒彦+六文銭)などが大ヒット、吉田拓郎(当時は、よしだたくろう)のアルバムが売上を伸ばしたのもこの頃である。ロックの世界でも、カルメン・マキ&OZのデビュー、頭脳警察のパンキッシュな活動、はっぴぃえんどに代表される“温厚派”ロックの台頭など話題は豊富だったが、和製ロックがメインストリームを形成するには時期尚早であった。

 

 和製ロックの市場が未成熟だった時代に、FTBを発奮させたのが、73年1月ローリング・ストーンズ来日公演での、前座抜擢であった。世界有数の著名なバンドとの共演を足がかりに、カナダ以外の海外進出も夢想していたことであろう。だが、当時を知るファンなら先刻ご承知の通り、ストーンズは公演直前になって来日中止が決定。緊張感が一気に萎えるなかでバンド活動にも行き詰まりを感じたのだろうか、73年4月、京都円山野外音楽堂でのコンサートを最後に、解散してしまうのである。

 

 アーティストのバイオグラフィを事細かに紹介するのは、当コーナーの趣旨ではないが、それでも子細に紹介せねばと思ったのは、あまりにも彼らの情報が少なすぎるからである。少なすぎるだけでなく、限られた資料でも、実は記述の食い違いが多く、ここで説明してきたことも、いくつか事実と相違する点があるかもしれない。

 

 何しろ、彼らが70年10月にアルバムデビューを飾ってから73年4月に解散するまでは、たった2年半しかなく、このうち1年4か月間はカナダ暮らしである。この間、つきっきりでサポートしたマネージャーがいたわけでもなく、執拗に追いかけたメディアや音楽ジャーナリストがいたわけでもない。唯一の頼りは当の本人たちの記憶だが、メンバーのインタビュー記事でも、いくつか情報の食い違いが見られるのが現状だ。

 

 セールス的には、当時のアルバム平均セールスが3万枚程度というから、今の音楽産業界から見れば小さな気泡のような存在かもしれない。だが、初めて米ロック殿堂入りを果たしたB'zや、日本代表のロッカーとして祭典に呼ばれた矢沢永吉、海外で評判を呼んだイエロー・マジック・オーケストラ、英国で熱狂的に支持されたサディスティック・ミカ・バンドなどの功績が語り継がれる一方で、FTBはあまりにも過小評価されているように思う。

 

 FTBが残したオリジナルアルバムは、全部で4枚があり、いずれもCD化されたが、全般的に品薄気味である。なかでも、73年2月に発表された最後の2枚組アルバム「メイク・アップ」は、いよいよ入手が困難になった。FTBは日本の音楽産業界、とりわけ和製ロックの世界では至宝の存在だから、いつでも新品が入手できるようにしておくのが音楽産業界の務めだろうに、それがなされていないのは極めて残念である。そこで、この作品を「隠れ名盤 世界遺産」に登録することにした。

 

 「メイク・アップ」は、ライブ盤とスタジオ盤がセットされたアルバムで、新作を作る途上で解散話が持ち上がったため、とりあえず完成した曲と、過去のライブ音源をまとめて出しちゃえ的な、いわば打算的な作品ではある。だが24分以上に及ぶ「HIROSIMA」の熱演などは聴き応え十分で、後に日立のCMに使われて評判を呼んだタイトル曲「メイク・アップ」も収録されている。また、内田裕也がボーカルをとったライブ音源の「ブルー・スエード・シューズ」も収録されている。当時何度もロックフェスの類で聴いた曲だが、今となってはこれまた、レアな音源ではあろう。

 

 当「隠れ名盤 世界遺産」では、以前からFTBを取り上げようと画策していたが、なにぶんweb上での情報がほとんどなく、日本のロックを記録した各種アーカイブ本の類で補うしかないと、せっせと絶版本を買い漁り、昔の「ミュージック・ライフ」誌を国会図書館で閲覧するなど、適宜情報収集に努めていた。さあ、いよいよ執筆を始めようと思って今回、改めてwebで情報収集してみたところ、FTB再結成(08年1月再始動)のニュースを知って、ぶったまげてしまった。

 

 彼らは確か10年ほど前にも川崎(横浜だったか?)のライブハウスで一夜限りの再結成コンサートをしており、幸運にも目撃することができて武者震いを覚えたが、今回は期間限定(3年間限定との噂)ながら本格的な再結成らしく、新アルバムのリリースも予定しているという。夏フェスに登場する可能性もあるかもしれない。これを機に過去のアルバムも紙ジャケでリリースされるような予感がするが、紙ジャケは転売やコレクション目的ですぐに品切れになるから、長い目で見れば品薄状態は変わらないのではあるまいか。実に困ったものである。

 

【参考文献】

●『日本ロック大系[上]』(月刊『ON STAGE』特別編集、白夜書房)

●『日本ロック大百科[年表篇]』(宝島編集部、JICC出版局)

●『聴け! 伝説の日本ロック 1969-79』(宝島社)

●『日本ロック&フォークアルバム大全1968-1979』(音楽之友社)

●『1970音楽人百科』(学習研究社)

●『オリコンNo.1HITS500(上)』(クラブハウス)

 

今でも鑑賞に耐える    ★★★★

歴史的な価値がある    ★★★★★

レアな貴重盤(入手が困難)    ★★★★

 

●この作品を手に入れるには……98年にCD化され、現在は品切れ状態。いずれ、新生FTBの新作発表とあわせて、再CD化される可能性はあろう。なお中古CDのなかには、1曲少ない1枚組CD(88年発売分)もあるので注意。オリジナル作は2枚組で、98年発売のCDも2枚組である。

 

●08/04/20追記……4/23に紙ジャケ再発売。他の作品も同時に。売り切れ必至と思われる。

 

【世界遺産登録 08年02月10日】

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※2008年2月10日に掲載した当時の原稿をそのまま再録しています。その後、CDは何度か再発売されましたが廃盤。

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2023年2月時点ではサブスクで聴くことができます。