映画「ソウルの休日」(1956)の食堂の動画 | 一松書院のブログ

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一松書院

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秋月望(明治学院大学名誉教授)が、朝鮮半島にまつわるエピソード、エッセイ、研究ノートなど、思いつくま...

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この記事についたコメント

  • 一松書院

    Re:無題

    >やんぼーさん
    情報をありがとうございます。
    半島ホテルは、1960年代あたりの映画に写り込んでますし、日韓国交正常化の前後にソウル特派員で駐在した人たちは半島ホテルを使っていました。寿司屋はどうだったかはわかりませんが。
    またよろしくお願いします。

  • やんぼー

    >一松書院さん

    朝鮮ホテルや半島ホテルについて訊ねてみました。
    ホテルを利用した記憶は無いが、半島ホテルには美味しいお寿司屋さんがあったので、お寿司を食べる時は利用していたということでした。窒素の経営だったと伝えると「そうそうチッソ石けんというのがあってね。引き揚げるときに内地にたくさん送ったけど、一つも届かなかったわ。」と笑っていました。

    丸善ですが、2階にはあんまり上がったことはないけど、1階はしょっちゅううろうろしていたということでしたので、記事中の女性店員さんのなかには、母のことを「よく来る子だな」と思ってられた方もいらっしゃったかもしれません。

  • 一松書院

    Re:無題

    >やんぼーさん
    丸善のこと、ブログに書いてみました。
    https://ameblo.jp/onepine/entry-12643223212.html

    京城に暮らした私の祖父母や両親も、引揚のあと暮らした福岡の呉服町に支店ビルがあった「丸善」については、こだわりがあったような気がします。
    京城の丸善については、やんぼーさんの母上の追憶とは違うところもあるかとも思いますが、色々教えていただければと思います。

  • やんぼー

    >一松書院さん

    貴重な画像ありがとうございます。早速母に電話して、水晶堂の写真が見つかったことを伝えました。店の写真は残っていないそうで、喜んでいました。母はITにうとく、携帯すら持っていないので、今度会ったときに画像を見せたく思います。
    「近澤建藏商店」の近澤さんは三重の津の出身の方で、日本に引き揚げてからも交流があったそうです。
    丸善は舶来品がたくさんあってわくわくするところ、またカネボウは、母が子どもだったこともあってか、サンドイッチを食べたりするパーラー的な印象だったそうです。ほかにパーラー的なところとして明治製菓を挙げていました。明治屋や森永キャンデーストアについて訊ねましたら、「明治屋はあった。森永はあとになってできたように思うけど」ということでした。
    愛国幼稚園は、母は「大東亜の精神だったから」と話しておりましたし、お茶の水女子大学のサイトにある「京城愛國幼稚園 (各地幼稚園便り) 」にも「真の日本精神を大東亜共栄圏の諸族民に、ひいては、世界全民族に理解させ、」とあり、中国人園児やトルコ人園児の在籍の記載もありましたので、園として外国人に門戸をい開いていたように思われます。ちなみにロシア人は領事館の子だったと思うとのことでした。
    弥阿里、「ミアリ峠」という曲があるのですね。母も「峠があったのよ。」と言っていました。また当時は「田舎で、日本人は巡査さんと兵隊さん(近くに砲陣地があったそうです)ぐらいしかいないようなところ。」だったそうで、遊び相手は現地の子どもたちだったとも話していました。

    あと近所に三井物産やタングステンの小林鉱業があったこと、試聴室がたくさんあった本町のレコード屋の話もしていました。



  • 一松書院

    Re:無題

    >やんぼーさん
    貴重なお話をありがとうございます。
    愛国幼稚園にロシア人の園児がいたとか、カネボウがオープンカフェのようなことをやっていたとか興味深いですね。弥阿里に疎開されたとか…。「ミアリ峠」という曲を大川栄策が韓国演歌として歌っています。結構有名な場所です。
    「近澤ケンゾウ商店の一角で店舗を営んでいた」とのことで、私の資料を検索してみました。そしたら出てきました。
    『大京城寫眞帖』(中央情報鮮溝支社 昭和12[1937])に「近澤建藏商店」の写真があります。そしてそこに「水晶堂」の看板がかかっているのを確認しました。
    ここには画像がアップロードできないので、私のサイトにアップした画像をリンクしておきます。
    http://onepine.net/file/suishoudou.png

    なんとなくワクワクしてしまいました。

  • やんぼー

    >一松書院さん

    母に訊ねたところ、寄り道していたのはおっしゃるとおり本町の丸善、通学路もおっしゃるとおりのルートでした。丸善の隣はおもちゃ屋だったかな~?ともいっていました。
    母は寄り道好きで、店やクラスメイトの家などいろんなところに寄り道していたそうです。「愛国幼稚園に通っていた頃には、園にロシアなどいろんな国の子どもがいたので、その子たちの家をひとりで市電に乗って見に行ったこともあるのよ。」とも言っていました。
    実家の水晶堂は近澤ケンゾウ商店の一角で店舗を営んでいたとのことでした。親が商売で忙しかったので、本町のタチバナ屋という和菓子屋からおやつの菓子を届けてもらっていたとも言っていました。
    別の記事にあったカネボウは、洋服も売っていたし、夏になると外にパラソルを出して、今でいうオープンカフェを設けていたと話していました。
    また家の裏手にあった清渓川が「日本人が来てから汚くなったって言われていてね。」ということも話したので、トイレのことについて訊ねますと、くみ取りに来る日は大変で、家じゅうお香を焚いてにおいをごまかしていたそうです。
    あと大戦末期に郊外のミヤリという場所に家を買って、妹と女中さんの3人で自主的に疎開していたという話も。

  • 一松書院

    Re:無題

    >やんぼーさん
    丸善は、1930年に黄金町1丁目に丸善京城出張所を開設。これは雅叙園のすぐそばです。
    その後、1936年に本町2丁目3番地に支店を出しています。
    南山小学校の時だと、本街の丸善の方でしょうか。学校からの帰り道だと、右側に亀屋があり、その向いの左側に丸善の2階建の書店があったはずです。1941年1941年9月には、その裏に3階建のビルを建てて拡張したとあります。従業員が100名を越えていたというのが大きな書店だったのでしょうね。

  • 一松書院

    Re:無題

    >やんぼーさん
    お母様は南山小学校ですか。それだと黄金町2丁目から明治町、本町という繁華街を通って通学されてたんですね。小学校は、今も「南山初等学校(小学校)」です。横にあった本願寺は教会になっていますが、石段が残っています。
    「丸善」は昭和の初めに、京城帝国大学内に売店を開き、1930年(昭和5年)に黄金町に出張所を設け、1936年(昭和11年)に支店に昇格して本町2丁目に移転したとあります。
    1937年の『大京城寫眞帖』に本町2丁目の店の外観と店内の写真があります。
    本町2丁目の「日の出洋行」(額縁・絵葉書)についてブログで触れた時にこの辺りの地図をつけています。
    https://ameblo.jp/onepine/image-12608935581-14782113911.html
    これは1933年の地図なので「丸善」は見当たりません。
    この地図は、ソウル歴史博物館で公開しているものです。
    もう少し広い範囲のものがダウンロードできます。残念ながら水晶堂は見当たりません。
    https://museum.seoul.go.kr/www/relic/RelicView.do?mcsjgbnc=PS01003026001&mcseqno1=013209&mcseqno2=00000&cdLanguage=KOR#layer_exhibit
    ここの「seo013209-000-011.jpg」には、黄金町2丁目から南山小学校の通学路が詳細にわかると思います。ただ、本町通りの南山寄りのところに新く「昭和通り」(現在の退渓路)が1930年代の終わりにできるので、お母様の通学時には多少変わっていたかと思いますが。

    もし、「丸善」の写真や地図などお入り用でしたら、メッセージでご連絡ください。

  • やんぼー

    和信の向かいの楽器店ことをお知らせ下さり、ありがとうございます。家族(85才の母)に電話で伝えましたら、「そうそう楽器店だったわ。」と言っておりました。
    いろいろ子ども時代のことを訊ねましたら、雅叙園の名前も出てきました。母の家は黄金町2丁目(東拓の前だそうです)で「水晶堂」という印章店を営んでいたそうで、何度か食べにいったことがあるそうです。あと近くの丸善にも南山小学校の帰りによく寄り道していたとか。