1929年9月12日から10月31日まで、京城の景福宮一帯を会場に「始政二十周年記念朝鮮博覧会」が開催された。この博覧会に、福岡市から福岡市長・時実秋穂が率いる「ドンタク隊」250名が「遠征」した。
一行が京城市内を練り歩く様子を撮影した貴重な写真が、福岡市中洲の老舗酒店・伊藤忠氏宅で発見され、2021年に西日本新聞によって報じられている。当時の活気あふれる姿は、以下の同社記事ページで見ることができる。
【参考画像:西日本新聞】 どんたく、92年前に海渡る 日本統治下の朝鮮博覧会、老舗が写真保管
この写真の奥に見える門は南大門(崇礼門)で、左手は南大門市場である。一行は朝鮮銀行(現・貨幣博物館)、三越デパート(現・新世界百貨店)方面へ向かっている。南大門市場の後方は朝鮮神宮参道へつながる道であることから、朝鮮神宮に参拝したあと、下ってきた場面である可能性が高い。
もう一枚の写真には、左側が半分切れているものの、看板が写っており、「碇屋旅館」と読める。この「碇屋旅館」は京城府寿町33番地にあった旅館で、新聞広告には「京劇筋向い」と記されている。京劇とは京城劇場のことで、この道の奥に見える建物は、地図上で「演芸館」と表記されている京城劇場である可能性がある。
この写真で、ドンタク隊が進んでいる方向には朝鮮総督官邸がある。当時の朝鮮総督は齋藤實であった。齋藤は1919年8月から朝鮮総督を務め、1927年に一度退任したものの、1929年9月、前任の山梨半造の更迭に伴い、博覧会開会直前という異例のタイミングで再び総督に就任したばかりであった。
最初の総督の時、齋藤は3・1独立運動の収拾と事後処理を託され1919年9月2日に京城駅に到着した。それまでの「武断統治」からの転換を図るため、同年9月26日付で朝鮮総督府の幹部人事を刷新したが、その際に新たに任命された幹部の一人が時実秋穂であった。時実は茨城県内務部長から忠清南道知事に抜擢され、その後、齋藤総督のもとで朝鮮総督府監察官、京畿道知事を務めている。
1926年、福岡市会は退任する市長の後任として、内務官僚で朝鮮統治の実績があり、齋藤総督とのパイプ役も期待できる時実秋穂に白羽の矢を立てた。当時の福岡市は、市政の近代化、博多港の修築、地元物産の販路拡大といった課題を抱えていた。
1926年10月に福岡市長に着任した時実秋穂は、翌1927年3月20日から5月18日までの約2か月間、福岡城の濠を整備し、その周辺をメイン会場として東亜勧業博覧会を開催、これを成功に導いた。この博覧会会場が、現在の大濠公園である。中国、朝鮮、樺太、台湾、南洋諸島からも出品があったこの博覧会を通じ、福岡は朝鮮や満州への玄関口としての存在感を示し、地場産業と商業の活性化に貢献したと評価された。
東亜勧業博覧会には、齋藤實をはじめとする朝鮮総督府の後押しもあり、齋藤が1927年12月に総督を退任した後も、時実秋穂は朝鮮との緊密な関係を維持していた。
1928年5月、朝鮮総督府が「始政二十周年記念朝鮮博覧会」の開催を正式に発表すると、時実は博多商工会議所や福岡市工芸団体連合会と連携し、博覧会への出品や視察団・見学団の派遣を計画し始めた。
「始政二十周年記念朝鮮博覧会」は、韓国併合から20年間の「統治の成果」を誇示することを目的としていたが、当時の日本の財政難から、当初計画より規模をやや縮小して開催された。それでも、景福宮から景武台にかけて大規模な会場整備が行われ、多くの王宮建造物が取り壊され、その跡地に各種団体のパビリオンが建設された。
朝鮮博覧会鳥瞰図 朝鮮博覧会京城協賛会発行
福岡市は九州館のパビリオン内に展示スペースを確保した。巨大な木造建築であった九州館では、展示面積の大半を福岡県が占め、筑豊の石炭や北九州の工業製品と並んで、博多人形、博多織、漆器など福岡市の伝統工芸品が華やかに展示されていた。
左:九州館(全景) 右:福岡市の展示スペース
こうした工芸品の出品に加え、福岡市工芸団体連合会は団体観覧客を組織し、それを母体としてドンタク隊を編成する構想を打ち出した。他の参加団体に比べても相当早い時点で具体化が進んでいたようで、朝鮮博覧会開会の半年前、3月10日付けの『京城日報』に次のように報じられている。
福岡県は、…他府県に率先して特設館をはじめ各種の催しを計画している。すでに本府に対し申込まれているものに博多名物、博多ドンタク、小倉芸者の北九州踊り、博多芸者の博多踊り等があり、博多ドンタクは福岡市の出品人200余名が団体を組織して視察に来鮮し、京釜線の列車中ですっかり身支度をして、京城駅に着くとただちに駅から博覧会場へ「エイヤッ」と踊りながら練って行こうという珍趣向で、定めし観衆をあっと言わせるだろうと早くも人気を呼んでいる
これら一連の動きが、福岡市長・時実秋穂の主導によるものであったことは明らかである。さらに、ドンタク隊派遣にあたっては、博多商工会議所から補助金が交付されている。
福岡市工芸団体に於て京城に於ける朝鮮博覧会の開催を機とし当地特産品の新販路開拓宣伝の為団員二百名を以て視察団を組織し出張に付之を援助し補助金を交付したり
永島芳郎編『博多商工会議所五十年史』(1941)
こうして、博多どんたく隊は9月21日午後7時に博多港を出発して翌朝釜山港着。京釜線で約10時間をかけ、22日夜19時に京城駅へ到着した。新聞が予告したような「列車中で身支度を整え、到着後すぐ踊り出す」という展開にはならなかったものの、車中ではかなり盛り上がっていたようだ。
長途の列車中を賑やかに囃し続け
博多ドンタク団 京城着
博覧会場や市中を練り回る
釜山上陸以来、300哩10時間にわたる長途の車中を打通しに囃し続けながら、22日夜、官民多数の熱烈なる出迎えを受けて入城した博多ドンタク団の一行は長途の疲れをものともせず、23日朝8時には朝鮮神宮鳥居前広場に集合、参拝し…『福岡日日新聞』1929年9月25日付
一行は、翌朝午前8時に朝鮮神宮前に集合、参拝後、京城の中心街を練り歩いた。
その時の写真が上掲の2枚の写真である。
その模様を京城の新聞『朝鮮新聞』『京城日報』『毎日申報』は写真入りで報じている。
特に、時実秋穂にとっては象徴的な場面であったと考えられる。直前の8月に齋藤實が再び朝鮮総督に任命され、着任したばかりの齋藤総督のもとへ、自らドンタク隊を率いて乗り込むことになったからである。その意味で、この京城行きは、時実にとっても高揚感を伴う出来事であったに違いない。
その後、ドンタク隊は24日、25日と京城に滞在し、26日に帰路についた。しかし釜山駅到着後、その夜に出港予定だった北九州商船の福岡行きの「珠丸」が時化のため欠航となる。そこで時実市長が先頭に立ち、釜山駅周辺で急遽ドンタクの練り歩きを披露したという。突然のお祭り騒ぎに、周辺は大変な賑わいとなった(『朝鮮時報』1929年9月28日付)。一行は翌日の珠丸で福岡へ向かった。
時実秋穂は1930年に福岡市長を退任した。その後、1931年6月に齋藤實が朝鮮総督を退任し、宇垣一成が総督に就任、政務総監には今井田清徳が起用された。この時期、京城日報社の社長が空席となり、後任として時実秋穂の名が挙がる。言論界での実績はなかったものの、朝鮮在勤経験の豊富さや、福岡市長時代の朝鮮との密接な関係が評価されたと考えられる。加えて、時実は宇垣、今井田と同じ岡山県出身であった。
1929年の朝鮮博覧会に博多どんたく隊250人が大挙して参加し、京城の街を練り歩いた出来事は、単なる文化交流や観光を兼ねた団体見学のようにも見える。しかし掘り下げてみると、行政、経済、人脈が複雑に絡み合った背景が、芋づる式に浮かび上がってくる。






