今年の311は、初めて東京で過ごした。
出張中の中休み。
どこでなにをしよう?
その日の朝まで
なにも調べないで
なにも決めないで
迎えた。
朝起きて。感じてみた。
皇居に行こう。
日本の象徴とされる
天皇陛下の居られる場所。
私は無条件な「天皇万歳」ではない。
天皇とは、まさに我々の象徴が如く
神聖さも、祈りも、誠実さを持ちつつ
ずるさも、悩みも、葛藤も抱えている
そんな存在だと思う。
「聖」そのものでないことは
史実が物語っているし、
それでも
「國民の安寧を祈る」存在であり
敬意とともに、相似象的に
私自身の表れとして重ね合わせている。
とにかく、皇居に向かったのは、
自分の「祈り」とは何かを問いたかったのだ。
2日前の夜、師の口を通して
イニシエーションは突然やってきた。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞
311の後、原発損傷の報を受けて、
わたしは逃げた。
原発がヤバいと知り、
仕事も、家族も、仲間も
お世話してくれたご恩も
すべてうっちゃって、逃げだ。
私なりの最善の選択をしたんだ。
批判も非難もすべて
受け入れる覚悟をした。
だから、
「被災地の方々に寄り添う」
なんておこがましいと、
どこか無意識層でブロックしていた。
頭では、
いろんなことを理解していた
つもりでいたけれども、
心の奥底には「そこ」に
触れないようにしていたんだ。
実際に体験していない自分が
「東北」の方々と同じ気持ちになんて
なれるわけがないんだ。
それに、逃げた俺には
そんな権利はないんだと。
頭では「非難を受け入れる」
なんて利口なことを言って
帳尻をつけた気でいた。
『知らないなんて言っちゃいけない。
あなたは全部、知っているでしょう』
その言葉は、個人・秋田 真介のみならず、
多次元的な魂に直接、訴えかけられた。
本当の意味で311と向き合うことに対し
無意識下で、本当の意味で逃げていた自分に
出会ってしまった。
この世に生きる人として
体験がすべてだ。
それは間違いない。
けれども
秋田真介という今生の一個人としてでなく
永遠の多次元を生きる魂の存在として
想像という体感を通して
そこにリアルはあるし、
「すべてはひとつ」の意識として
その思いに同調しようとする試みは、できる。
リンク 東日本大震災の記録
https://www.jiji.com/sp/d4?p=lat216&d=d4_quake
無関係なことなんて思うつもりはなかったけど
どこか無意識の領域で線を引いていたんだ。
謙虚であろうとした私の在り方は
逆に自己保身の傲慢さであった。
体験してないんだから
生身のリアル感には差があるだろう。
だからって寄り添おうとする
試みはやめたくない。
寄り添い、私ごととして引き受けるんだ。
そんな単純なことに気づいた。
8年目にして、ようやっと
自分だけのストーリーでなく
全体としての311を魂の存在と繋がって
受け入れることができたのかもしれない。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞
私は自身の無意識層にこびりついた
そのダムを決壊させた。
被災地に生きる方々に想いを馳せた。
被災地に祈りをもって感じた。
涙が溢れたが、
未だに言葉にはならない、したくない。
大地震による復興は
日々、進んでいるが充分ではない。
そして、原発事故は
未だリアルタイムの進行形であり
自分の中でも落とし前がつけられないでいる。
どうすりゃいいんだ!
日々薄れる記憶を反省しつつ
自分の無力さを感じつつ
この世の不条理を感じつつ
いろんな矛盾を感じつつ
いま、私にできることをやり続けるのみ
という信念のもと、
明日からまた
多次元的な魂の存在であることを自覚しつつ
人間・秋田真介を生きていきます。
以上、
言葉にすればするほど
チープになってしまうこの想いを
散文のまま、言葉に残します。
311を受けて
我々はどう生きるか?
今、目の前にある大事なことに
精一杯取り組み、今を生きる。
その生き様が答えであり
「祈り」の体現そのものである。
すべての犠牲者に
すべての生存者に
八百万の神々に
祈りを捧げます。
2019年3月11日
合掌。








