カッパドキアは長い歴史と文化的背景があるので、詳しく語り尽くすことは省きます。
自分が特に興味を持てた部分のみの解説を、またTURKISH Air&Travelから拝借して貼り付けます。
トルコは心底興味深い国ですので、もしいつか旅行に行きたいとお思いになったら、このサイトは詳しく解説が載っているので、読んでみてください。

カッパドキアは、”文化遺産”と”自然遺産”両方の条件を満たす、世界でも珍しい複合遺産です。


(アンカラ以外赤線を引いたところは今回訪問した所です。カッパドキアは一番右“東”にあります)


この地方の住民はいつも岩の多い場所に好んで住んでいました。石を利用し、あるいは自然の岩を穿って、山の上や谷、深い峡谷の岸辺に家を作りそこに住んでいました。穴から地中にもぐり、岩の割れめや迷路のような隠れ家に住んでいた事から、10世紀のビザンティンの歴史家は、カッパドキアの住民はかつて世捨て人と呼ばれたと言いました。
住民の多くは主に農業に従事しており、特にぶどう栽培と家畜の飼育が主な仕事でしたが農地や牧草地は町に住む地主のものでした。住民は、作物の大部分を占領軍や、神殿の維持のために供出するよう強制されていました。

2世紀にキリスト教が知られるようになったころ、カッパドキアはさまざまな思想、哲学、東方諸宗教の入り乱れるるつぼでした。初期のキリスト教徒はおそらく、ローマの宗教的迫害から逃れてきた人々で、キリスト教徒の大部分は、タウロス山脈全域を占領したアラブ人の支配からカッパドキアヘ避難してきた人々でした。

これらの新しい住人たちは、丘の斜面を掘り、岩を刻んで教会を造り、内部をフレスコ画で飾ります。こうしてカッパドキアの岩石地帯は修道院や修道士の祈り、教会などの大展示場の様相を呈するようになりました。
11世紀後半にセルジュク族がやってきたときには、カッパドキアには1000を越える宗数的施設があったそうです。カッパドキアのキリスト教社会と、イスラムのセルジュクトルコの関係は友好的でしたが、14世紀に入るとオスマン帝国に吸収されてしまいました。キリスト教信者のギリシャ人たちは、後世のトルコとギリシャの人民交換政策により、1920年代にカッパドキアを離れることになってしまいました。














掘られた洞窟の中の住居





この日回ったのはギョレメ野外博物館

パジャパー

ウチヒサールです


トルコ絨毯の製作風景








トルコ絨毯は細かい目で緻密に織られているため重いものを置いても型がつかないと言われています。


ウールと絹などの絨毯の質感は異なっています。

のですが、ちょっと映りが悪いのですが、

こちら↓手触りも光沢も絹だと思っていたら、コットンでした。ちょっとびっくり。



この日のランチは壷焼き

この壺のくびれたところに楔をカンカンと打ち付けて割ってライス(ちょっと塩味のご飯です)にかけてくれました。






量が多すぎて全部は食べられませんでした。

トルコは食べ物の量が多いし、デザートは非常に甘いものが好きみたいです。

だからか、一般の方、相対的に少し太めの方が目につきました。


…カッパドキア2日目に続く


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