朝7時に空港まで送ってくれるバスに乗り、

10:25発 AF-7363  でパリへ

13:10発 AF-0292  で関空へ

関空へは6/15  午前8:50着の予定。


朝7時、ホテルを出てバスを待っていましたが、

今までのドライバーは時間にも場所にも正確で遅れるということがなかったので、電話を入れると,

『もうすぐ着くよ、空港へ』

って、リヨンの空港に向かってました。

それでも、さほど待たずに、方向転換して、ホテルに迎えにきてくれて空港へ。


搭乗手続きをしていたときに、Oさんの荷物が重量オーバーだったので、私は大丈夫かとドキドキしましたがOKでした。

が、妹と私の席は、前後で、3人続きのシートの窓側、1番奥です。

短時間ならいいけれど、長時間この席はキツイ。

ということで、€40払って、2人とも通路側の席に変えてもらいました。

これが後で、ちょっと面倒なことに。

すんなり行けばそれで問題はないのだけれど。


時間潰しで、免税店の辺りをうろうろしていると、

AF-7363は1時間ほど遅れるという情報が。


乗り継ぎの時間が少なくなるなぁと思いつつ、時間が余計にできたので、星の王子さまのメガネケースやどこへ行っても集めているコースターや、娘たちに口紅などを買ってしまう。散財だわ。


長々と持って機内へ。


どう考えても、これ、出国に時間がかかったら間に合わない可能性があるのでは…と考えていた。


1時間10分の飛行時間を終えてパリに着いて、みんな急足で出国審査に向かうと、普通は日本人の旅行客は顔認証ゲートを使ってさっさと出国できるのだが、その機械が作動していなくて、大人数が並んでいる列の後に並ぶことに。


添乗員さんは、乗り継ぎの飛行機の出発時間が差し迫っているから、使っていないゲートを使って出国させてくれないかと、頼んだが、拒否。


みんなが審査をしているときに、関空行きのAF-0292も出発が遅れているという情報が。


全員が審査を終えて、(リヨンから一体シャルル・ド・ゴールの何ターミナルに着いたんだったか、Bくらいか?)

全員で急足で、関空行きが出るターミナルEに向かう。

長い、遠い、永遠か〜と思うほどの移動。

0292は、36分くらい遅れているという情報が!

よし、頑張らねば!

ターミナルDあたりから,走る走る💨必死で走る!

手荷物ぶら下げて、走る走る!


ターミナルEに着いたが、私たちが目指す50番ゲートは1番遠い、その先にまだ飛行機がいるのが見える!

ゲートまで10メートルほどのところで、先頭を走っていた添乗員さんが、手で✖️印を出した!

ええ?そこに飛行機はいるのに⁉︎


見ると、タラップが外れている。

コンピュータの操作の関係で、一度外されたタラップはもう戻せないらしい。


私たちは乗り遅れた。

しかし私たちだけではなく、他にも数組日本に乗り継ぎする人たちがいた。

同じ航空会社なのに、30人もリヨン発の航空機から間に合っていない人たちがいるのに、なんの連絡も行かず手配もできないものなのか。


その後,私たちがどうなるか、

ではなく、AFがどう対処するか、に費やす費用と労力を考えたら(私たちも後で分かったことだが)、

もう一度タラップを戻す方がよほどエールフランスにとっては、損害が少なかったと思うのだが。


これが個人で来ていたら、カウンターでどのような交渉をして、どこまで、リヨンからのAF-7363の遅延の責任をとってもらうか、私にはわからなかった。


あとは,旅行会社へ連絡しつつの添乗員さんとエールフランスとのやりとりになる。


待つこと3時間、やっと全てが決まったようだ。


添乗員さんは、全員一緒ということを大前提で交渉してくれた。


その日のうちの、日本へのエールフランス便はなく、翌日も、関空行きの便はなく、翌日の夜10:30の羽田行きまで便はなかった。


それでも、添乗員さんの頑張りで、私たちは通路側あるいは通路側から2席を全員確保してもらった。


そこからエールフランスが予約してくれたホテルまで地下鉄とバスで行かなければならないというような噂がどこからともなく流れたが、これは間違いで、係員について、またまた空港内を延々歩いて、出口近くまで行き、お泊まりセットの男性用アンダーシャツと髭剃りと保湿剤のパウチの入った袋とペットポトルを1本ずつもらって、Bターミナルに来たホテルのシャトルバスに乗ってその日の宿泊場所に行った。もちろん宿泊費はエールフランス持ち。


古い施設ではあったが、なんとか壊れたボタン付きのエレベーターを作動させて、夕食も朝食も食べることができた。

場所のわりに、食事はよかった。


翌日は朝の10時にチェックアウトして夜の10時半まで時間があるわけで、パリで再入国したので、パリの観光も可能だったが、その場合、離団誓約書を書いて、あとの全責任を負って帰国しないといけなかったので、誰も自由行動はしなかった。

離団していたら、後々まだ大変なことがあった。



Yさん、よく言った!


翌朝のこと。


全員がチェックアウトしに入り口付近に集まり、20人(実際にはその時は19人)で、口々に喋っていて、うるさかったのかも知れない。


離れたソファの所で、外国の方と話していたYさんが、トコトコとやってきて

大声で『みなさーん!』と声をかけ、

『私たちは日本人で、日本のイメージがありますから、楽しいのはいいですが、もう少し声を下げてください、私たちは…』と演説を続けようとしていたところで、


旅の最初で,なんと大きな声で喋り続けてうるさいなぁと思っていた70代のご婦人の1人が、


『はい、わかりました!

ありがとうございます!』


と言って、Yさんの言葉を遮った。


確かに全員集まっていたし、ソファに1人でいた外国の方に、『やかましいけど、君たちはどこの国から来たのか?』と聞かれたのかも知れない。


私たちは、某C国の人々に持っているような印象を与えるような状態になっていたのかも知れない。



またシャトルバスで空港に戻り、ターミナルBから Eまで戻らなくてはならなかったので、もう腰が崩壊しそうな妹はカートに手荷物を乗せて押して行こうと言った。


途中、お金を取り扱える場所の近くで、しばらく解散して、添乗員さんと妹と私は、関空行きのAF0292で変更した席の払い戻しに行った。

面倒なことをしてしまったものだが。

何事も上の人の承諾を取らずにできないので、これまた30分くらいかかって、クレジットカードに払い戻しをしてもらった。

ここでも,いろんな書類を確認のために渡して、帰ってきた物の中に私の航空券がない!

帰ってきてないというと、全部渡したと言う。

何かをした拍子に、その航空券が目について、無事戻ってきたけれど、本当に、全く、やってることが信用できないから、万一、大事なものを手渡した場合は、気をつけてください。


払い戻すより、そのお金で再度いい席を買えばいいのにと言っていたようだが、私と妹は、最後尾から2列目の2人席だったので、通常料金の席で十分だった。


それから半日近く、私たちはトム・ハンクスの映画「ターミナル」な生活をすることになる。


ここで過ごすために、エールフランスは1人€30の金券を食事代のために私たちに提供した。


Eターミナルに行って待っていた。

妹と私は、ランチにお寿司の大きい方の箱とお茶を一本ずつ買い、€28.5くらいかかったので、お釣りは出ないが金券、€15ずつ出し合った。

お米はパサパサだったが、やはりこちらのサーモンはノルウェー産なのだろう、美味しかった。


どうやって時間を過ごそうかと長い半日が心配になったが、ゆっくりと食事したり、みんなと話したり、免税店を覗いたり、ちょっとバッグを棚から下ろして見せてもらったりして時間を過ごした。


リヨンで出国してパリで再入国した際に移動途中で、ヴィトンの紙袋を持っていたため、係員に止められて質問された買い物好きのご婦人は、またもやシャネルで小型バッグを試着しているのを見かけたが、買ったようである。


私はおそらく1番安いであろうセリーヌの、スマホとカードくらいは入れられそうな小さなトートを掛けさせてもらったが、犬の散歩にしか使えなくて、ビニール袋に入れた犬のウンチを💩入れるのに10万円以上するカバンを買うのは馬鹿げている。

それでも、それがこの免税店フロアのブランドショップで売っている1番安いバッグだっただろうと思う。

まあ、物色して時間潰して楽しませてもらった。


そうこうするうちに、昼を抜いて、€30の金券を一度に使って早い目の夕食を取ろうと決めていたマダムN、Oさん、添乗員さんと一緒に、「パリ大好き」みたいな名前のレストランに入った。

後で、ブルーの髪とピンクの服の2人も加わった。


私たちが使った旅行会社というか、このような安い旅行についている食事は、今ひとつなので写真はとっていないが,ここで食べたものが一番美味しかった。

フランスだけれどイタリア風なものが多かった。

それぞれ頼んだのは、このようなものである。


内容の濃いシーザーサラダ


キノコ類が乗っているリゾット


これは茹ですぎでハズレだったらしい添乗員さんのパスタ


お酒飲みのマダムの頼んだ肉の煮込み。

マダムは昼間でもビールなら大と中を頼むが、私が自分の分を飲みきれないので、自分のグラスにちょうだいと言って、飲んでくれた。


長いターミナル生活の後、やっと、今度は15分くらいの遅れでやっと羽田に向かえた。



そして、羽田から関空まで、関空で一泊しないと帰宅できない人たちの宿泊費も全部エールフランスが持つことになるのだが…


羽田からは人数の都合で、伊丹ではなく関空着にしようと思うと、JALとANAに分かれることになった。


この間の乗り継ぎ時間も短く、羽田も国際線から国内線乗り場への移動は、修羅場であった。

臨時で移動のバスは出してもらってくれたが、その前に…


いくら待っても荷物が出て来ず、荷物は以上です、と言うお知らせが出て、私と妹も含め、このグループの半数以上が荷物の積み残しで、帰宅しなければならなかった。

そして,時間もなく、バタバタと、A4の封筒に住所と名前を書き、その中にトランクのキーを入れるように言われて、預かり証も貰わずに、ANAに乗る人たちに挨拶もできずに、出口で待ち構えていた旅行会社の人に先導されて、JALの搭乗ゲートへの道を急いだ。

これも、助っ人がいなければ、JALに乗ったことがなかったので、第1ターミナルなのか第2なのかも分かっていなかった。

またまた慌てふためいて移動しなければならないので、悪くすると東京泊になってしまったかも知れない。その場合もエールフランスが宿泊費用を持つことになっていた。

しかし、なんとかJALの出発には間に合った。


シャルル・ド・ゴールから、遅延の電話をした際、夫に、本当なら到着日の翌日だった医大病院の検査を別日に予約してもらい直し,16日の午後10時半頃に関空まで迎えを頼んだ。シャトルバスはもうない時間だったので。


妹を送り届けて、23:30頃自宅に着いた。


そして、これでまだ終わったわけではなかった。


後日着いたトランクには鍵がなかった。

スペアは別に持っていたので、トランクは開いたけれど、鍵が1つになってしまうと、今後またこういうことになった場合に困る。


エールフランスが荷物の遅延などに使っているスイスポートジャパンという会社に、妹も私も何度も電話したが3日間ほど出ず、問い合わせ先は採用サイトにしかないのでそこにメールを入れて問い合わせても返事がなく、私は諦めかけていたが、執念深い妹が、家の電話ではなくスマホで電話したら繋がって、最終的に鍵も戻ってきた。


トランクは、妹と私よりずっと遅れて、海外保険の手続きをしようかというときに、やっと届いたというマダムNも、心配していた。


そのマダムNは、7月にはルフトハンザでドイツに行くらしい。毎月海外旅行をしていて、夫の父が亡くなった時も、海外にいて戻って来なかったらしい。面白い人であった。


これで、私の『東フランス 10日間ちょっと前まで』の旅行記は終わりです。


無事帰れてよかったです。

聞いてはいても、自分にこんなことが起こるとは思っていませんでした。


この旅行は初めての企画で、私たちはモニター旅行の様相だったので、今後、使う航空会社や時間割についても改変するかも知れないし、企画自体が消滅するかも知れないですね。


貴重な体験でした。


❤︎