気になるというか、自分らしくないなと思い続けているのが、
もう、母が亡くなってほぼ2ヶ月だけれど、泣けないということ。
育ててくれ、いろいろ世話になった人なのに、本当におかしいくらいに、泣けないし、思い出せない。
気にしない人は気にしないのだろうけれど、
どちらかというと、思考力より感情機能の方が先に働くタイプの人間なので、普通ではない。
アメリカ人の友だちには、numbと言われたのと、認知症者の死はblessingだからと言われ、
涙腺の硬い友だちには、泣くことだけが悲しみの表し方ではないし、非人間的とか氷の心とか思う必要ないよと言われた。
あるお薬をもらっている医者に話したら、鬱で感情が麻痺していると言われた。
うーん、どれも違うような気がする。
心の一部のドアを閉じてしまって、見ないようにしている感じだろうか…自分から拒否している感じ。
昨日、先ほど書いた「パラサイト」の待ち時間に、妹と話していて、彼女は占いを信じたり、風水を信じたりするようなところもあり、母の死が、理に適ったものだという話になった。
2015年に、母は十二指腸破裂で、ICUに入り、ほぼ死にかけた。
その時、妹の娘が言うことに、母の天中殺の時期であり、本当は、母はその時死んでいるはずだった。
(天中殺のことは知らないけど、私も、その時に死んだ方が、母はラクだったと思う。生きながらえさせて悪かったと、その後思っていたし、その時なら泣けた。)
で、その時期、その私の姪も天中殺が2年くらいあり、妹たちは家を建てた時期でもあり、母は、心身ともにしんどいけれどみんなのために生きていてくれたと言うのだ。
そして、今回、私の病気も含めて、すべての負の部分を持ってあの世に行ったのだと。
妹と姪は、そういうことを信じるタイプ。
納得している。
私も別に信じないわけではないけれど、科学的根拠のないその手のこじつけには、あまり納得しない。
それと、ほぼすべての人に、私の病気を持って母が死んでくれて、私は生存率が高い結果になったというふうに言われて、そう、それが今ではなかったら、私も、『そうよ、お母さんありがとう』と、感謝して、オヨヨと泣けたのかもしれないと思うけれど、正直にいうと、ややウンザリしている。
そういう風に考える日本人の傾向に。
やはり、私の感情機能自体がおかしくなっているのかもしれないけれど。
妙に抵抗して、みんなには言わないけど『私は、科学的なことしか信じてないから!』と反抗したくなる気持ちがある。
話は、美しくまとめておけばいいのだけれど、どうもスッキリしない。
大人になると、娘は母に批判的になるものだから、私も愛情半分…批判半分だ。
特に、自分の非を認めず、支配的な部分が強かったのには自分の母親ながら、好きとは思えない。
それでも、泣くに値する恩は感じている。
なのに泣けない。
考えても仕方ないから、このままやっていくしかないけれど、父の時みたいに単純に悲しくなれたら、どれだけ幸せか。
なぜ、こんなにひねくれてしまったのだろう。
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