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3、長男の治療経過
これまでの過程はこちら
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●発熱と遺伝子外来
陽子線の事前検査で筑波に1泊入院したものの、
本当に治療を受けるか考え直して、と、予想外の医師の言葉。
筑波を退院した2017年5月9日、国がんに電話で事情を話して翌日の外来予約を入れました。
が、
退院した日の夜、長男が発熱。
予約をキャンセルし、代わりにかかりつけの小児科で吸入と鼻水の吸引をしました。
この頃から、風邪を引くたびにゼーゼーがひどく、
喘息様気管支炎を指摘されるようになります。
時系列で書きたいので、ここで少し話が逸れますが。
この日の夕方、
長男がお腹の中にいた頃、羊水検査の遺伝子検査をした大学病院の遺伝カウンセリングを予約してありました。
今後、次子をどうするかということについて、相談などをしたく、
2017年3月、東京に異動になった後、予約を取ったものでした。
まさか、長男の治療がここまで切羽詰まった状態になっているとは思いませんでしたが、
なかなか予約が取れないので、長男を母に診てもらい夫婦で受診。
このことについてはまた後日順を追って書くつもりです。
次子を考えるにあたって、この頃私は孤独な戦いを繰り広げていました。
夫は全面的に私の意思を尊重はしてくれていて、それには本当に感謝していますが、
なんせ、遺伝の原因は私。
そして、これは私に限らず人類、いやほとんどの生物がそうですが、産むのも女の私。
長男の闘病を経験し、弟妹を作ってあげたいと思っても、
やはり、「もう自分のせいで子供が治療する姿は見たくない」
が本音でした。
妊娠中に私の精神状態がどうなるか不安でしたし、
当時、長男の治療は生後7日目から丸1年が経っても、未だ先が見えず、
生まれた直後に右目の視力は望めないと言われた時の衝撃も鮮明でした。
1/2の確率なら遺伝しないかも、とか
早期発見で早期治療すればいいじゃない?とか、
そういう楽観的気持ちには、とてもなれない状態でした。
経過観察にはなりましたが今も、その気持ちは変わりません。
遺伝がわかっていて長男を産んだことを後悔したことは一度もなくても、
やはり、次の子も同じ治療をするかもしれないと思うと、それは私の精神的にもう無理だ、と思います。
同じ疾患の方が子供をどうするか、
その選択は様々で、それに賛否を申し上げるつもりは全くありません。
親子間遺伝を経験した一患者の率直な気持ちです。
今私がこうして冷静にこのことを書けるのは、
2017年9月に出会いがあったからです。
同じ疾患で同じく子供に遺伝する体験をし、
同じような思いで同じ頃、全く別の場所で同じようにカウンセリングを受けていた同年代の女性。
私たちを直接知っている方々は「あーはいはい」という感じだと思いますが(笑)
知り合ってまだ一年足らず。
ほぼ毎日連絡を取り、悩みを打ち明け愚痴を言い、
患者として、患者の親として、出来ることは何か考え、
一人ではできなくても、同じ思いの人がもう一人いると思ったら、踏み出せたこともたくさんありました。
これほど、「ピアサポートとは」ということを実感したことはありません。
本当に人生を変える出会いでした。
●再々々外来
話を戻します。
長男の熱は3日ほどで下がり、吸入にも3日ほど通い、
症状が軽快した2017年5月15日、
筑波退院の6日後に国がん外来を受診しました。
ひとまず、陽子線開始を想定して受けた4月末の動注の効きを診てもらいました。
腫瘍はやや小さくなっていて、多少の抑制効果は出ているとのことで、ホッとしたのを覚えています。
その後、筑波の先生に、事実上陽子線は考え直せと言われたことを伝えると
主治医の返答は全くブレず、前回と同じ。
腫瘍の浸潤は摘出しなければ分からないという意味で白黒はっきりさせるのは摘出の一択。
摘出しない限りどんな治療法も賭けだというのは変わらない。
あくまで経験則として、通常視神経に被ってから視神経浸潤まで多少の時間はかかる。だから選択肢として(当初)放射線を提案した。
それが怖いなら摘出の一択。
4月末のMRIで浸潤は見られない。そもそもMRIに映るレベルなら眼底検査で目視してももっと状態が悪い。
目視でわかる範囲の状態からすれば、視神経浸潤の可能性はまだそこまで高くない。だが浸潤を仮定して陽子線照射を腫瘍部分のみでなく広めに設定した。
仮に浸潤があったとしても、十分照射されると推察できる。
摘出を選ぶなら止めない。今手術予約を入れるなら5月末に入れられます。
などなど。
しかし、陽子線の最中に転移が進み亡くなった子がいるという話をした時にだけ、少し反応が違いました。
「それは三側性ではないんですか?」
「仮に照射範囲から外れた視神経に浸潤部位があったとしても、照射期間(1〜2ヶ月)に亡くなるほど進行が早いというのは、もちろん可能性としてなくはないが、あまり考えにくい」
という趣旨の話をされました。
普段から、確実な事以外は絶対に断定的な物の言い方をしない方だと知っているので、
その怪訝な様子が印象に残ったのを覚えています。
ただ、私がかなり混乱しながら聞いたことです。
三側性は筑波の医師に否定された記憶がありますが、
本当に眼窩でなく眼球に照射したのか、亡くなるまでの期間は、など、確認したつもりはあっても、
正確にメモなどを取っていないため、確実とはいえません。
無意識に自分の願望の方に寄せて伝えてしまっている可能性もありました。
国がんのHPによると、年間のRB患者の診察症例数は平均50人超。
(初診の数だと思います)
自然発生で国内年間約80人が発症+長男のような遺伝性を含めても、
主治医はざっと患者の過半数を診ている計算です。
逆に言えば年間半分じゃくほどは国がん以外の病院で診ているということ。
筑波でも、RB患者の抗がん剤治療や眼球摘出手術なども行っているため、国がんの主治医が診ていない患者も当然います。
自分にとって都合のいい(陽子線ができる)情報だけを集めようとしているのではないか。
命と片目を天秤にかけるなんて、やはり私は頭がおかしくなって正常な判断ができていないのでは。
2ヶ月前からのループは変わりませんでした。
それでも最終的に決めるのは私たち親です。
主治医のご好意で、5月末に摘出手術の予定を入れていただき、
夫と二人で結論を持ち帰りました。
3月から治療の選択は週ごとに変わり、
その度に、超多忙な中、私たちの決断を尊重し続けてくれた主治医に、心から感謝しています。
●決断
国がん受診の翌日、2017年5月16日。
夫と話し合い、筑波が受け入れてくれるのであれば、
陽子線治療を希望しようと決めました。
主治医が摘出一択しか勧めない状態なら別だが、
(あくまで可能性の話として)温存治療の猶予はあるのではないかということ。
両眼照射となる放射線(X線)以外の道が見つかったこと。
亡くなった子の話は体が震えるほど衝撃的でした
が、
陽子線の話で最初に筑波の外来を受診した時には、その話が全く出なかった。
1週間後、長男の症状の悪化の兆候は何もなかったのに、突然症例の詳細が分からないまま、脅しのように例示されたことに、
「リスクのある例は引き受けたくない」というような、直接関わっている先生以外の圧力のような違和感を感じたこと。
最後のは私の被害妄想かもしれません。
摘出を最善と思う医師がいるのは至極当然です。
筑波の先生たちが信用できないわけでもありません。
現に、この後の治療で筑波の先生方には本当に親身に対応頂き、感謝の言葉しかありません。
それでも、RBの症例を国内で誰より診ていて、
長男が生まれてからずっと腫瘍の状態を診てくれている主治医の言葉のほうが説得力を感じられた。
それが決断の後押しになりました。
翌17日、筑波に電話をして、陽子線を受ける旨を伝えました。
本当に苦しかった。
私が逡巡しなければ夫は3月の時点で100パーセント摘出を選んでいたと思います。
つまり、夫がどう言おうと、この決断は私がさせた決断。
近い将来、遠い将来、長男が陽子線を起因とする後遺症や2次がんを発症したら、
私は死ぬほどのたうちまわって後悔すると思います。
それを覚悟で決断しました。
この強烈な強迫観念は1年経った今も私を苦しめていて。
どこか少しでも長男の調子が悪ければ、
心臓を掴まれるような思いで調べ回ります。
アザができた、
虫刺されと思しき腫れ、
咳がなかなか治らない、
軟便が続く、
お腹は張りすぎていないか、
体の左右で不均等なところはないか、
押して痛がるところはないか。
私の遺伝子が、長男の健康を生まれながらにして奪った。
穏やかな乳児期も、視力の大半も、たくさんの選択肢や可能性も奪った。
周りの人や、例え長男自身がそう思わなくても、私は一生、その思いを抱き続けます。
陽子線の決断についても、
大げさでなく、私が死ぬまで。
一生背負っていきます。
その苦しさを超える、愛しさやかけがえのないものを
長男は私に与えてくれたので。
彼の将来の道を増やしてあげることができるなら、
そのための労力は惜しまないつもりです。
暗い暗い暗い長い長い長いブログを
暗いわーマジ長いわー、こんなやつ友達になりたくないわーと思いながら読んでくれていた方が
もし生き残ってここまでたどり着いてくれていたら(笑)
この決断を機に、私はほんの少し浮上して、
陽子線治療の間はもう少し前向きです。