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3、長男の治療経過

これまでの過程はこちら

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※2016年3月~5月、生後7日~生後45日目までの全身化学療法(抗がん剤)治療中の話です。
 
●生後7日目:小児医療センター受診
 
●生後1~2日目
出産した日の夕方(か次の日だったか記憶は曖昧)、
「臍帯血をヤマト運輸のクール宅急便でがんセンターに送ります」
と連絡がありました。
クロネコヤマト、そんな仕事もしているのか、と驚いた瞬間でした。
 
日本の物流、すごい。
 
 
出産直後、低酸素で一時的に保育器に入れられた長男。
そのまま担当の小児科医が帰ってしまったので、成り行きで1日保育器にいることに。
 
母子別室、母親以外はガラス越しにしか赤ちゃんに会えないマンモス産院だったため、
翌朝、ゆっくり長男に会えた時はまだ保育器越しでした。
小柄な赤ちゃんが多い中、3000g越えのしっかりしたうちの子。
その半日のラグのため、出産直後の授乳教室に参加しそびれ、
初授乳は保育器に囲まれた中、他のチビちゃんのケアで忙しそうな看護師さんから雑に教わる、という哀しいデビューでした。
 
 
出産後数日はほとんど母乳が出ず、その後数ヶ月の間も母乳の出がイマイチだった私ですが、
長男は生後2日目からすでに哺乳が上手で、
大して出なかった乳も哺乳瓶のミルクもバッチコイ状態(笑)
 
治療に入ってからも、
飲まない!食べない!と悩むお母さんが多い中、
離乳食から現在に至るまでも、食に関する苦労はほとんどなく(遊び食べなどは困ってますが)、助かっています。
 
 
授乳時間に部屋から母親達が新生児室に集まってきて授乳、という産院でした。
初日の出遅れに加え、やはり病気の話をするかもということで
大部屋ではなく個室をお願いしていたため、
同じ時期に出産した他のお母さんたちとはほとんど会話が出来ませんでした。
 
どこかで、今後の治療などのことを考えてしまって、「ママ友」を作る気になれなかったというのもあると思います。
 
 
私は母乳の出が悪くて悩みまくりましたが、
反対にうまく母乳を飲んでくれない、といつも隣で悩んでいたお母さん
(私が陣痛でもだえている時、隣のベッドで2時間のスピード出産をしたお母さん(笑))が、
3日目くらいに、小さな小さな声で、「はーるーくん!」と呼びかけていたのを覚えています。
「名前をハルキに決めたんです」と、照れながら、嬉しそうに名前を呼ぶ姿が素敵でした。
 
 
●生後3~5日目
 
3日目には黄疸で再び日焼けサロンに逆戻り。
 
大人数の産院だったので感染症予防のためではあると思いますが、
入院中は夫ですら直接の抱っこは一度だけ。
私も入院中は3時間ごとの授乳以外は部屋でしっかり休めたので、
ありがたいといえばありがたかったです。
 
 
産院ではそこそこ高額なお値段で、新生児聴覚検査+心エコーをしてもらい異常はなし。
(受けるのは自由です。でも受けないの?お子さん可愛いよね?心配じゃないの?
異常がなければ安心料なら安いよね?という感じの書面を渡されて勧誘されます)
 
 
その説明を聞く際に、
「眼底検査をいつできるか」
と尋ねたら、
「新生児の眼底検査ができる医療センターは近くにあるが、まだ紹介状を書いてない。通常は予約は数ヶ月先」
と言われ、頭にきました。
 
「疾患の遺伝をお伝えしましたよね。胎内で発症するケースもあると。
早期治療のためにこちらで出産することにしたとも伝えましたよね。
1日でも早く予約を取ってください」
と、若干キレ気味でお願いしました。
 
小児科の先生にその場で医療センターの眼科に電話してもらい、
退院予定日の2日後に予約をねじ込んでもらいました。
 
 
すでに疾患の遺伝を報告してあるのであれば、
「がんセンターで診てもらえば 」
と思うかもしれません。
しかし、国がんは専門病院のため、いくら母の私が国がんにカルテのある患者でも、
生まれた子は紹介状がなければがんセンターでは診てもらえません。
 
産院→地元の眼科(さすがに小児医療センターレベルだったけど)→がんセンター
という手順を踏む必要がありました。

 
予定日に近い日に生まれたため、夫は生後5日目のちょうど退院の日まで休みを取っており、
毎日ガラスにべーったりくっついて長男を眺める日々(笑)
 
普段はブラックな仕事ぶりなので、そんなに休みが続いたのは奇跡に近かったのですが、
「あのお父さん、毎日ガラスにぶら下がっているけど、お仕事してるのかしらひそひそ」
と、言われていたと思います。
 
 
産院退院の日は、ちょうど桜が満開の頃でした。
実家近くの桜並木で5分ほどの記念撮影。
 
眩しそうだった長男は仏像みたいな顔で写っていましたが、いい思い出になっています。
この時期の生まれは、誕生日の頃に必ず桜が咲いている。
日本の桜が、私の中で少し特別なものに変わりました。
 
 
新生児落屑であちこち皮がぺろんぺろん剥がれていた長男。
夫は、そのかさかさの小さな手が夫の指を握りしめる様子(ただの反射)にひとしきり感動した後、
ばたばたと出生届を出し、関西の自宅に戻っていきました。
 
 
遺伝しているのは分かっている。
発症しているかもしれない。
その恐怖はありましたが、ひとまず他に目で見てわかる疾患は見当たらず、
ただただ小さくて愛おしい。
生まれてからの数日間は出産ハイもあり、束の間、病気のことを忘れて過ごせた時間でした。
 
 
 
●生後7日目
 
チャイルドシートに載せるのすらおそるおそるの頃でした。紹介状を持って母と小児医療センターへ。
散瞳の目薬の後、若い女医さんがエコーと眼底検査をしてくれるということで、
外来の待合で待っていました。
 
遠くから聞こえる小さな小さな泣き声にハラハラ。
 
 
結果は、「すでに両眼に腫瘍がある。左目は黄斑に半分くらいかかっていて大きめ、右目はそれよりやや小さいサイズ」とのこと。
 
 
ただ、女医さんの口ぶりがかなり不確かな雰囲気だったこと、
撮影してくれた写真はピンボケで、「ここらへんが腫瘍かな」ということくらいしか分かりませんでした。
新生児の眼底検査も網膜芽細胞腫も、おそらくほとんど診察経験がないのだろうな、と推測できました。
 
周産期や小児科に関わる医師や看護師、保育師の方々は驚くほどこの疾患を知りません。
もう少し、ほんと少しの知識があれば早期発見につながるケースも増えるだろうに、と、残念でなりません。
 
 
 
文字通り、生まれる前から覚悟はしていましたが、その頼りない診断はやはりショックでした。
 
 
そのまますぐに国立がんセンターに電話をし、眼科の主治医S先生につないでもらいました。
 
主治医は、
「黄斑にかかっているんですか?」
と何回か確認しましたが、
なんせ、写真ではピンボケ、自信のなさそうな女医さんの説明をそのまま伝えるしか出来ず。
 
「明日、私は不在ですが、代わりの先生が眼底検査をしてくれるので連れてきてください」
「おそらくそのまま入院になりますので用意を」
「最初は抗がん剤(全身化学療法)で腫瘍を小さくして、腫瘍が黄斑がそれたらレーザーなどの局所治療をしていきましょう」
 
そういった説明を手早く電話でされたと思います。
 
 
繰り返しますが、覚悟はしていました。
でもやはり、電話を切った後少しの間、涙は止まりませんでした。

遺伝子検査をしたことも、長男を産んだことも、1mmも後悔はしていませんが、
親として健康の憂いなく産んであげられなかったこと。
思いつくできうる備えをして最短で検査をしても、
やはり発症は抑えられるものではなく。
腫瘍の位置も大きさも生まれてからではコントロールできない。
 
ただただ悔しかったです。
 
 
長男の前では泣きたくなかったので、
しばらくして落ち着いてから母と長男のところへ戻りました。
 
 
 
突発性で網膜芽細胞腫と診断される場合は、眼科をいくつか経た上で告知の瞬間があると思いますが、
長男の場合、遺伝が分かっていたので、この女医さんの
「すでに両眼に腫瘍があります」
というのが確定診断といえるのだと思います。
 
 
 
 
出生届はおそらく受理されていましたが、
なんせ生まれたてで保険証もない状態。
しばらく会計は預かり金やら仮払いやらで時間がかかり、
新生児を抱えて人の多い外来での手続きは面倒でした。