防波堤に打ち寄せる波を見つめていた。

 海はどことなく荒れていた。それは僕の心のようであった。

「海はどうしてこんなに大きいんだろう?」

 僕は水平線近くに視線を移して、視界を横切るタンカーの姿をとらえた。

 今の自分が酷く小さな存在で、そのことで胸がいたんだ。

「見送りはいらない。達者でな!」

 人影のない港、僕は目の前に停泊する帆掛け舟に足をかけた。

 風を受けて走り出した舟の乗り心地は最高。気分は、すっかり大海原だった。


「ああ?」

「^^」

「すいません」

 僕は慌てて舟から降り、しきりに頭を下げた。

「おはよう!^^」

「カッコイイなと思って、つい……。すいません」

 僕は、動揺して狼狽していた。

「また乗りに来てね」

「いいんですか?」

 何という太っ腹。何という温かい心。

 その優しさに涙を拭うのも間に合わないほどだった。

「また明日。きたよします!」

「ハイ。また明日!」

 手を挙げた僕は、そそくさと次のお部屋へと移動した。

 昔、この町を出て行く時も、やはりこの小さな港にいた。

 僕だけではない。この町には高校がなくて、進学する人はみんな町を離れなければいけなかった。

「さようなら!」

 僕は他のみんなと一緒になって、デッキから叫んでいた。

「ありがとう!」

 岸壁から手を振るのは、保護者達と下級生、それと高校へは進学しない数名の同級生がいた。


 島が小さくなると、僕たちは船の中に戻った。

 誰もがこれから始まる新しい生活に夢と希望を抱いていた。

「見てみて、これ買ってもらったの」

 真新しい音楽プレーヤーを誇らしげに見せびらかす友達がいて、他の友人達もまた同じような物を得意げにカバンから出していた。

 携帯電話にパソコン。他にもいろんな物を買い与えられていた。

 しかし僕たちの大半は、山間部に作られた棚田で米を作る農家の子供達であった。

 今、米はそれほど高くは売れない。食生活が変わったのもある。米自体が容易に作れるようになったのもある。機械化が進み、ますます棚田での生産には限界を感じていた。

「でもなんでアユミ、高校行くのやめたんだろう?」

「噂だよ。噂。お父さんが物凄い借金したらしくて……」

「うそぉ~」

「へぇ~」

 北野アユミは、町では珍しく農家の娘ではなかった。オヤジはレストランを経営していたのだが、暇さえあれば酒を飲み赤い顔でフラフラと歩いているのを目撃されていた。

「どうするんだろう?」

「店を手伝うのかな?」

「店もつぶれたって話だよ」

「エエ?」

 ここにいる誰もが明るい未来に夢を描いているからこそ、不幸を背負った友人の末路で盛り上がった。


「家賃いくら?」

「俺のところは一八!」

「安! 俺のところは、二万四千円」

「風呂付き?」

「違うの?」

「ガハハハハ」

 まだお金も稼いだことがないのに、与えられることにだけ慣れていった。


 僕は、一人でデッキに立っていた。

 手すりの上に両手を乗せて、その上にアゴをつけた。

 もう島は見えない。僕は、遠くなる記憶を手繰り寄せた。

「こんばんは」

「ああ、アユミちゃん」

 アユミが母親と二人でやって来たのは、昨日の夜八時だった。僕は、出発前の準備で忙しくしていた。

「コウキ、アユミちゃんだよ」

「うん。上がってもらって」

 そう答えてしばらくすると、僕の部屋にアユミが顔を出した。

「どう、準備は進んでいる?」

「見ての通り。忘れ物しているようで、不安になるよ」

「ちゃんとチェックリストを作った方がいいよ」

 僕の荷物の傍らに座り、アユミが積み重ねられた衣類に手を置いた。

「ああ、これ買ってもらった腕時計?」

 時間だけでなく方位や気温、標高まで測ることが出来る登山向けの多機能時計だった。

「父ちゃんに買ってもらった」

「うわぁ~、カッコイイね」

 アユミがずっと見つめていたから、僕も少し得意になって、

「腕に巻いてみてもいいよ」

 なんて口にしていた。

「いいの?」

 おどけていたはずのアユミが、急にボロボロと大粒の涙を床に落として泣き出した。

「どうしたの?」

「私も行きたかった……。一緒に高校へ行きたかった……」

 だけどそんなアユミの気持ちを、僕はどう癒していいのか分からなかった。


 アユミが泣き止むまで、僕はただただそばにいることしか出来なかった。

 何をしてあげたらよかったのかも分からなかったし、上手い冗談も言えそうになかった。

「ゴメン。急に泣いて驚いたでしょ? 気にしないで」

 アユミは、そう言って立ち上がり母親達がいる一階へと行ってしまった。

 僕とアユミは、幼馴染ということになる。親たちの仲が良かったから、週に一度はどちらかの家でご飯と食べていた。

 しかしアユミの父親の一件から、母がお金を貸しているらしいことを僕は知っていた。アユミにもそんな話は出来なかったし、母も僕に漏らしたことはなかった。

 今にして思えば、それだけ大変だったのだろう。


 ここにこうして立つと、直ぐに昔のことが昨日のことのように思い出された。

 初めて高校生となった年、僕は夏休みの十日ほどをこの島で過ごした。けれどアユミやその両親の姿はすでになかった。

 噂では父親の方が先にいなくなり、梅雨の頃に母と一緒にアユミも島を出て行ったのだと聞いた。

 よく晴れた空の下、島を歩けばのんびりとした風に出会った。

 どんなにゆっくりとした時間だろうかと都会暮らしになれてしまった僕には、癒しにさえ感じた。

 今でも思う。もしもアユミも同じ高校へと進学していて、あの頃と変わりない二人でいられたのならば……。しかしそんな想像が虚しさを誘うこともよく知っていた。

 人の出会いと別れは、いつも些細なズレに左右された。もしもそこで真っ直ぐあるいていたら……。二人は出会わなかっただろう。

「ああ~!」

 僕は、岩場に腰を下ろして伸びをした。遠くに水平線が見えていた。

 なぜ急にここへ足を運んだのか。それは、僕が過去を思い出にするためだった。

 都会で出会った今の恋人。いずれは彼女と結婚するつもりだ。だからこそ、ここへ来て、全ての過去を思い出として胸にしまうつもりだった。

 アユミに寄せた思い。

 今となっては、それも思い出に変わろうとしていた。

 僕は、一人で風に吹かれていた。

 長い長い時間をかけて、僕はアユミに伝えられなかった想いを心の中で整理するのだった。

「キミが大好きだ!!」

 居たたまれなくなった僕は、想いを断ち切るためにその場に立ち上がり海に向かって叫んだ。

「私もよ!!」

 その声に驚いた僕は、バランスを崩しそうになりながら振り返った。

 夢かと思った。幻かと思った。僕はしばらく呆然として、水色のワンピースをまとった娘をじっと見つめていた。