昭和の岩窟王 吉田石松氏の壮絶な生き様 | 人魚姫の泡言葉

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書籍はこれ  吉田石松翁事件


【事件の概要 Wikipedia】


1913年8月13日の夜、現在の名古屋市 千種区 の路上で繭小売商の男性が殺害され、1円20銭が奪われた。翌日被疑者として2人の男性が逮捕されたが、彼らの供述から主犯として吉田石松(当時34歳、1879年 -1963年 )が逮捕された。だが、この供述は(他の冤罪事件にも見られることであるが)共犯者が自分たちの罪を軽くするためにまったく無関係の第三者であった吉田を主犯にすりかえたものであった。当時の捜査当局は自白偏重主義であり、この虚偽の自白を真実と信じて吉田に拷問を加えたが、終始否認を続けた。にもかかわらず、一審では「従犯」とされた2人に無期懲役、吉田に死刑が言い渡された。控訴審、上告審では無期懲役が言い渡され、刑が確定して吉田は服役した。



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殺人を犯した二人が主犯格としてデッチ上げ工作し、吉田石松(当時34歳)を無実の罪で陥れた事件。挫けそうになりながらも無罪を叫び続け死刑の判決、再審で無期刑が確定しても尚、獄中から無罪を訴え続けた。仮釈放で自由を得た吉田翁は、罪をなすりつけた二人を見つけ出し、詫び状をとり再び再審請求したが棄却。


無罪活動呼びかけに天皇にも直訴、特例の再審を受理。苦難の末に無罪を勝ち取った昭和のがんくつ王 吉田石松翁の壮絶な人生。冤罪を晴らすだけに人生を費やしたとまで言える。

無罪判決を勝ち取るまでの長い道のりは50年にも及んだ。


この裁判は異例で、戦後でありながら天皇の名で判決が下された。

判決文

「被告人、いな、ここでは吉田翁と呼ぼう。我々の先輩が翁に対して犯した誤審をひたすら陳謝するとともに、実に半世紀の久しきにわたり、よくあらゆる迫害に耐え、自己の無実を叫び続けてきたその崇高な態度、その不撓不屈のまさに驚嘆すべき類無き精神力、生命力に深甚なる敬意を表しつつ翁の余生に幸多からんことを祈る」


吉田石松翁は、9ヶ月後老衰により安らかに眠りにつく。



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【 本題 】

一度裁判が確定すると、同じ事件について二度重ねて裁判は行わない。これは刑事被告人が二重に処罰される危険を防ぎ、また私人間の民事紛争の裁判であっても、紛争を一回的に解決し、権利関係に不安定な状態を生じることを防ぐという目的で定められた原則である。


しかし、裁判といえども、人間のやることだから、どんな慎重に審理したとしても、誤りを犯す可能性はある。誤判がはっきりしているのに、無実の者に「有罪」の汚名を着せたまま放置しておくことは許されない。


「一事不審理の原則」は、なによりも国民の権利を守るために定められたものであり、より具体的に国民の権利を守るために、やり直し裁判を行う道を保障することこそ憲法の精神を生かす事であり、刑事訴訟法、民事訴訟法で判決の結果を左右するような重要な証人が偽証していたことがわかったときなどの厳格な基準に従って、誤判を受けた者は再審を訴えることができると定めている。


※ しかし、現実には再審を開く「基準」が裁判所によってあまりにも厳格に解釈され、多くの誤判といわれている事件が、「基準に合っていない」ということで、再審の審理に入る以前に、門前払いされている。


一度決まった裁判が簡単にひっくり返ったのでは、国民は安心して裁判の結果を信用することができないから、再審の裁判を慎重にすることは結構なことだが、だからといって、裁判所が一度出した裁判を「誤判」と認めることをいやがり、あまりにも厳格に「新証拠」を要求し、国民の再犯の訴えを実質審理にもはいらず門前払いを続けようとするならば、「誤判」をそのまま押し通す国家の犯罪につながってゆくのではないだろうか。


裁判員制度スタートまで3ヶ月足らず。「拘束時間が長い」「法律用語が判らない」などの意見が出ている。



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