モンゴル歴史 History
チベット暦2127年迎える。チベット領域250万キロ平方メートルものチベット高原からなる。
海抜4000mを越え、ヒマラヤを含む高山から成りまたこれらの山脈に境界をなしているチベットは、アジアを流れる主要な川の全ての源でもある。インダス河、ガンジス河、サトレジ河、ブラマプトラ河、サルウィン河、メコン河、揚子江、黄河、これら全ての河は、チベットが源である。環境学的に見ると、チベットはアジアの中でも最も重要で微妙な地域である。
隣接する中国、インドといったアジア主要国での文明誕生と同時期に誕生。1977年と1984年に2つの発掘現場で新石器時代の遺跡が発見され、当初紀元前5000年のものであるとされた。後に、考古学者たちは、チベットで初めて定住が行われたとされる中石器時代(紀元前1万3千年~紀元前1万年)の物であると推定。チベット文明誕生から7000年を経てる事が分かる。
チンギス・ハーンとその子孫は、ヨーロッパとアジアに広大な土地を征服し、太平洋からヨーロッパに至る。1207年、チベットに北接したタングート部はモンゴル軍の襲来に崩壊し、続いて1271年、モンゴル帝国は帝国の東半分を治めるべく元朝の成立を宣言した。
さらに1279年には南宋が滅び、元は中国統一を完成させた。中国は今日、元を正統王朝に位置づけることにより、モンゴルの征服地のうち少なくともその東半分を中国の領土だと主張している。
白書は、明王朝が元王朝に取ってかわり、チベットの統治権も継承したと書く。
しかし、この記述には歴史的な根拠がない。先に述べたように、モンゴルの皇帝とチベット僧との関係は、モンゴルが中国を征服する以前から存在している。そのうえ両者の関係は、中国人が明朝を興す前にすでに途切れている。また、明は元からいかなる対外関係をも引き継ぐことがなかった。その一方で、モンゴルの王(ハーン)たちはその後数世紀にわたり、チベットとの宗教的な結びつきを、往々にしてチュ・ユンの形で堅持したのである。
チベットと明の間には、ほとんど接触がなかった。あったとしても、時にライバル同士でもあるさまざまな宗派のチベット僧が個人的に明を訪れ、皇帝から世俗の称号をもらったりする程度だった。僧侶たちの訪明の記録は、15世紀ないし17世紀のチベットの史書にみられるが、チベットが中国に政治的に従属したとか、支配されたとかいう記述はどこにもみえない。
1350年以降、チベットはパクモドゥ派[カギュー派の1分派]1族の支配するところとなり、さらに1481年からは実権がリンプン1族の手に移った。パクモドゥ派の王タクパ・ギェルツェンは、1406年、明の皇帝による招待を辞退している。これは取りもなおさず、当時のチベットに主権があったことを示している。
1565年から、ダライ・ラマ5世が政治権力を手にする1642年(明滅亡の2年前)までは、ツァン地方の王がチベットを治めた。これらチベット王と明王朝との間には、ときおりの外交関係もあったようだが、やはり明がチベットに対して政治権力を行使したり、支配したりすることはなかった。
1644年、中国の皇帝はふたたび異民族に玉座を追われることになる。満族はみずからの王朝を建てることに成功し、中国を中心とした大帝国を治めることとなった。これが清王朝である。
1642年 ダライ・ラマ5世はモンゴル首長グシリ・ハーンの後押しを受けチベットをまとめ、聖俗両界の最高権力者となった。※それ以来、チベット人はダライ・ラマ5世 を「ゴンサ・チェンポ(最高の統治者」 と呼び、法王の威信をはるか国境を越えて広がった。
ダライ・ラマ5世は、清の皇帝達とも繋がりを深めた。モンゴル諸帝との場合もそうであったが、チベット僧と清朝諸帝の間に中国が介在することはなかった。(オーウェン・ラティモアが記している)存在したのは清帝国であり、中国は帝国の一部にすぎななかった。
※中国が清に併合された後の1653年、順治帝は、ダライ・ラマ5世を首都北京へと公式招待した。チベットの王であり同時に中央アジア仏教界きっての指導者ダライ・ラマ5世を、みずから4日もかけて北京郊外に出迎えた。
ダライ・ラマ5世と順治帝は、このとき前例のない高い称号を互いに与えあい、チュ・ユンの関係が確認された。
グゲ遺跡チベットが内乱に乱れていたこの時期、清はチベット支配をある程度成功させている。しかし、清の支配力はその後急速に減退し、チベットがカシミールからの侵入(1841~1842)、続いてネパールからの侵入(1855~1856)、さらに英領インドからの侵入(1903~1904)によって紛争に巻き込まれると、清は完全に出番を失った。
さらに19世紀の半ばには、清の諸帝{と駐蔵代表(アンバン)}の役割は形骸化するに至るのである。
1792年にネパール・ゴルカ朝がチベットに侵入した。乾隆帝はダライ・ラマの求めに応じて大軍を派遣し、ゴルカ軍を討ってチベット-ネパール間に平和条約を調停した。
話は前後するが、白書がことのほか注意を払っているのは、1793年に乾隆(けんりゅう)帝が制定した、いわゆるチベットに関する29条の布告と、駐蔵代表の任命に関する部分である。※
※チベット人は、29の項目から自分たちの益になるものを採り、そぐわないものを捨てた。
1908年、チベットは清からかつてない侵攻を受け、両国に大きな分岐点が訪れた。1910年、清がダライ・ラマの廃位を図ると、ダライ・ラマはチュ・ユン関係の終結を宣言した。保護者である皇帝が導師ダライ・ラマを攻めたことで、両者の関係は土台からひび割れてしまった。
侵略に対する抵抗運動は、1912年の清朝滅亡を受けて成就し、チベットは占領軍を降伏させた。同年夏、チベットと清はネパールの調停によって「3ヵ条協約」を結び、停戦と清軍の完全撤退を確認した。ラサにもどったダライ・ラマ13世は、1913年2月14日、チベットの独立を宣言した。
1240~1350年 モンゴル帝国皇帝との在り方
1368年~1644年 明朝皇帝との在り方
共産中国のチベット侵入まとめ 抜粋記事転載】
1949/08/10 中国国民党政府、パンチェン・ラマ6世の転生者を認定
1949/10 共産党軍、中国全本土を掌握
1950/11/11 チベット政府「共産中国による侵略」を国連に提訴
1950/11/17 国民議会、ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォに全権を委託
1951/05/23 中国、軍事的侵略の威嚇の下に、ンガボ・ンガワン・ジグメら代表団に北京で悪名高い「チベットの平和的解放のための措置に関する17ヶ条協定」への署名を強要
1951/09/09 中国共産党軍、ラサに到着
1954 ダライ・ラマとパンチェン・ラマ「第1回全国人民代表大会」に出席
1954/04/29 インド政府と中華人民共和国政府「平和五原則(パンチ・シーラ)」に調印
成蔵公路、青蔵公路が完成
1955/03 北京政府、チベット政府に代わる「西蔵自治区準備委員会」の設立を提案
1956/04 「西蔵自治区準備委員会」が公式に発足
1956/11/25 ダライ・ラマ法王、インド釈尊入滅2500年記念祭ブッダ・ジャヤンティに出席
ネール首相と亡命の可能性について協の議したものの、周恩来中国首相がチベット情勢の悪化を食い止めると約束したため、説得に応じて帰国。
1957/02/07 中国共産党当局「チベットの土地改革は6年間延期されるであろう」と発表
1959/03/10 ラサでチベット蜂起開始。中国はチベット人87,000人を殺害して蜂起を鎮圧
ダライ・ラマとともに80,000人のチベット人がインド亡命
周恩来首相、チベット政府の解散を宣言
ダライ・ラマ法王が著した1959年3月10日
(FREEDOM IN EXILE「ダライ・ラマ自伝」より)
1959/04 ダライ・ラマ、インド北東のアッサム州テズプールに到着。「17ヶ条協定」は「武力威嚇によってチベット政府と民衆に押しつけられたものだ」として拒否
ダライ・ラマ、北インドの山岳部ムスーリでチベット亡命政府を再樹立。「私の政府とともに私がどこにいようと、チベットの民衆はわれわれをチベット政府と認める」と宣言
1959/08 中国、インド・チベット国境に人民解放軍部隊を配備。インドも北部国境の軍備を強化
1959/10 国連総会が「チベット人の基本的人権と特有の文化および宗教生活の尊重」を要請する最初の決議(1353 XIV号)を採択
1960/01 中国のチベット支配に対し非公式で武力抵抗を続けるための地下ゲリラ基地がネパールのムスタンに設置される
1960/02 南インドのマイソール付近の森林地域にあるバイラクッペで最初のチベット人農業入植地を建設
※今日ではインド、ネパール、ブータンにおける入植地と福祉事務所は54カ所に上る
1960/04 チベット亡命政府がインド北西部ダラムサラに移動
1960/05 亡命人チベット学校第1号がムスーリに開校
同時にダラムサラにチベット人学校(チベット子供村)がオープン
※今日ではインド、ネパール、ブータンに87校があり、3万人の生徒が学んでいる
1960/06 国際法律家委員会が初めてチベット問題に関する報告書をまとめ、中国が「チ ベット人の残虐な殺害」を行い、51年の17ヶ条協定を組織的に無視していると批判
1960/08 国際法律家委員会がチベット問題で第2号報告書を発表し、「宗教的集団として のチベット人を破壊しようとして、虐殺行為が行われている」と指摘
1960/09 チベット亡命議会が設立され、チベット人民代議委員会と名付けられる
後に、チベット国民代議員大会と改称
1961/12 国連総会がチベット問題に関する決議第2号を採択し、チベット人に自決権を認める。
1962/11 「チベット自治区(TAR)」の僧院と尼僧院の97%、TAR以外のチベット地域の僧院と尼僧院の98~99%が無人化ないし廃墟化
後にチベット亡命政府の宗教・文化省が集計したところでは、全チベットの6259カ所の僧院、尼僧院のうち、破壊を免れたのは8カ所だけだった
1963/05 中国人科学者、水爆設計作業のためアムド入り
ダライ・ラマ、将来のチベットのための民主憲法を公布
1964/05 パンチェン・ラマ10世、ダライ・ラマへの支持を公に表明したためラサで逮捕される
1964/08 ラサでチベット人学生10,000人が中国の政策に反対してデモ
1965/12 国連総会がチベット問題に関する第3の決議(2079号)を採択し、「チベット人が常に享受していた人権と基本的自由をチベット人から奪うあらゆる行為の停止」を改めて要請
1966/08 毛沢東の文化大革命により、チベットにさらなる死と破壊の波が押し寄せる
1970/10 亡命チベット人の最大の非政府政治組織であるチベット青年会議(TYC)がダラムサラに本部設置
1971/01 中国、チベット北東部アムド州のツァイダム盆地に初めて核兵器を配備
1979/07 トウ小平、チベット解放政策を発表
1984/06 チベット亡命政府、中国による侵略および占拠の直接の結果として、120万人のチベット人が死亡したと発表
1987/09 ダライ・ラマ、米議会の人権会議で演説し、中国政府との交渉によってチベット問題の解決を図るための 「五項目和平プラン」を提案
1987/10 ラサで中国支配に反対する2つの大規模デモが勃発し、国際的に報道される
1988/06 ダライ・ラマ、欧州議会でストラスブール提案を発表。この中でチベット3州を統合し、真の自治を享受するが、チベットの防衛、外交については引き続き中国が担当することができると提案
1989/01 パンチェン・ラマ10世がシガツエ訪問中に死去
死の数日前、パンチェン・ラマは声明で中国のチベット支配は利益よりも多くの害をもたらしたと指摘
1989/03 ラサでの3日間の抗議デモを受けて、中国がチベットに戒厳令を宣言
1989/10 ダライ・ラマにノーベル平和賞授与が決定
1990/04 中国、チベットへの戒厳令を解除
1990/05 ダライ・ラマ、亡命政府の全面的な民主的改革を行い、選挙によって選ばれたチベット国民代議員大会に政府閣僚を選任する権限を付与
1991/06 チベット人民議会、チベット亡命政府のための新たな民主憲法を採択。これは亡命チベット憲章として知られ、国連人権宣言に大幅に依拠した
1991/08 国連の少数民族差別保護と差別撤退のための小委員会は「チベット情勢」決議を採択し、「チベット人特有の文化的、宗教的、民族的アイデンティティーを脅かす人権と自由の侵害に関する情報が相次いでいること」への懸念を表明
1991/10 ブッシュ米大統領、チベットが支配下にある国と宣言する議会決議に署名
1992/02 ダライ・ラマ、「将来におけるチベットの政治形態の指針と憲法の基本要点」を発表
この中でダライ・ラマは、将来の自由なチベットにおいては、選挙によって選ばれた政府のために、権限を放棄すると述べ、チベットが自由を回復した時にはチベット亡命政府は解散することを明らかにした
1995/05 チベットの6歳のゲドゥン・チューキ・ニマ少年をパンチェン・ラマ10世の転生者と認定
中国、ニマ少年を連行し、ギャルツェン・ノルブ少年をパンチェン・ラマ11世として認定(今現在、ニマ少年と両親の所在は不明 )
1996/04 中国、チベットで愛国的再教育と精神的文明化キャンペーンを開始
これらのキャンペーンは、チベット人を威嚇して、ダライ・ラマへの信仰を放棄させることが狙い
特に、僧院や尼僧院が標的とされた
1997/05 ダライ・ラマ、台湾を訪問。嵐のような歓迎と大々的な報道が行われ、李登輝総統とも会談
1997/10 米政府が国務省にチベット問題を担当する新たなポストを設け、グレッグ・クレイグがチベット問題に関する初代の特別調整官に任命される
1997/12 国際法律家委員会、チベット問題に関する第3号報告を発表し、「チベットにおける抑圧が一層、エスカレートした」と指摘
ICJは国連総会が59年と61年、65年の決議に基づいて議論を再開することや国連人権委員会がチベットの人権状況を調査するために特別報告者を任命すること、国連事務総長がチベット問題の平和的解決とチベット人の意思を確認するための国連が監視する住民投票を推進するための特使を任命することを勧告
1998/03 チベット青年会議のメンバー6人が、ICJの97年報告の勧告を履行するよう国連に圧力をかけるため、ニューデリーで死に至る断食を決行
デリー警察が断食を阻止
チベット青年会議の支持者ツプテン・ンゴドゥプが焼身自殺
1999/03 チベット青年会議のメンバー3人が、チベットにおける人権状況に関する対中国非難決議を採択するよう国連人権委員会に圧力を掛けるため、ジュネーブで死に至る断食を決行
ハンストは26日目に国連と諸国政府の要請で中止
チベットの状況に関して評価が行われるとの公式の保証が与えられた




