得意先のオフィスビルに着いたのは、約束の30分前。タツヤは1階のカフェで時間をつぶすことにした。1時間前にワイシャツにこぼしたミネラルウォーターは、あとかたもなく蒸発していた。当然、胃の中のミネラルウォーターも。

レジでアイスコーヒーを受け取り、窓際のカウンターに座ると、尻に違和感を感じた。手を伸ばし、その原因の正体に触れた。カセットテープだった。

カセットテープを見たのは、すごく久しぶりだった。なぜ、この場所の、この位置にあるのか。しかも、ケースにも入っていない…。再生するレコーダーを持っているはずもなく、ジッと見つめてみたが、中に何が入っているのかもわからない。
誰かのいたずらかと思い、周囲を見渡してみたが、当然それらしき人物は見つからなかった。タツヤは迷った末に、そのカセットテープを持ち帰ることにした。約束の時間まで、あと5分。

打ち合わせは1時間ほどで終わった。その間、4、5回はカセットテープのことを考えただろうか。
会社に戻って、テープレコーダーを探したが、見つからなかった。結局、タツヤがテープを再生できたのは、夜の九時。コンポにカセットテープを入れ、再生ボタンを押す前に冷蔵庫から缶ビールを取り出し、そして改めてボタンを押した。

聞こえてきたのは、会話だった。どうやら、電話でのやりとりを録音したものらしい。声の主に聞き覚えがあった。最近バラエティ番組によく出ている、大物華道家の声だ。ということは、相手の若い女は不倫関係にあると噂されているあの女優だろうか。
タツヤはビールを一気に飲み干した。

(携帯電話にて)
酒の買い出しを命じられ、近くのスーパーに向かった。
九時を過ぎていたからだろう、フロアには人が数人しかいない。

ゴーヤを前に、なにやら考えているおばあさんがいた。
「二百円ねぇ」
近くを通ると、おばあさんはそうつぶやいた。

かごの中に入れたビールは、一本二百円。
学生のカスミやその友だちにとっては、決して大金ではない。
ただ、そんな金額でも躊躇する人はいるのだ。

カスミはみじめになった。
レジに向かう。友だちは鍋を囲み、カスミの帰りを待っている。
かごの中にはビールが十本。
両手に持ったビニール袋は、バツゲームにしてはあまりに重すぎた。
ヒロシが父親に古いiMacをあげたのは、もう1カ月前のことだった。
インターネットの接続には苦労していたようだったが、「今日、使えるようになった」と、昼休みにそばを食べているときに電話がかかってきた。父親はうれしそうだった。「メールを書くから、今日」。

ヒロシは仕事を終えて、終電に乗り込んだ。その四十分間は熟睡する。
電車を降り、駅前のコンビニでビールと惣菜を買い込む。バラエティ番組を見ながら食べ、風呂に入り、パソコンの電源を立ち上げたのは、深夜の二時。メールのチェックとお気に入りのブログを読むのは日課だ。どんなに疲れていても、それは怠らない。そうしなければ、一日が終わった気がしないし、気分的に疲れが取れない。

メールの送受信ボタンを押す。三件の新着メールが届いた。その一件が父親からだった。
「……というわけで、これからたまには付き合ってください。追記 今日、おいしい錯乱母を送ったから」
錯乱母? サクランボだろ? 思わず、ひとり静かな部屋で大爆笑した。
早くメールを送りたくて、ろくに読み返しもしなかったのだろう。あの人らしいといえば、あの人らしい。
ヒロシは近況報告と誤字の指摘だけの、簡単な返事を書いた。三時を回っていた。

眠い。でも今日は、気持ちよく眠れそうだった。
住宅情報誌に書かれている「閑静」は、「何もない田舎」と同義語だ。料理番組における「珍味」が、「まずい」と同義語のように。それだけは理解してもらいたい。
つまり、何が言いたいかというと、俺が住んでいるボロアパートは閑静な住宅街にある。何の注釈もないと、まずまずの生活をしていると思われるだろう。それが嫌で、あえて説明をさせてもらった。
いらぬ誤解を与えない。それが“俺らしさ”でもある。完璧主義者で、几帳面で、小心者の自分に万歳だ。

そのボロアパートの目の前に、洒落たパン屋がある。そのパン屋にはじめて入ったときの話だ。

いつも、小腹が空いたときは五分ほど歩いて、コンビニまで行く。
だけど、その日は雨だった。面倒くさくて、目の前のパン屋に行ったというわけだ。
で、目当てのカレーパンを探す。二百五十円。高い、これは高すぎるだろう。
セレブな住民がいるならまだしも、どう考えても、このあたりの住民は中流以下。誰が買うんだ。
というわけで、カレーパンをひとつだけ買うことにした。さすがに何も買わないのは、かっこわるすぎる。

店長らしき初老の男性がレジにいる。今はやわらかい笑顔を浮かべているが、素の顔は少し怖い。コックっぽい服装をしているから、ひとりでパンをつくり、レジを打っているんだろう。
俺はバカでかいトレイにカレーパンをポツンと乗せ、レジの前に立った。
「二百五十円ですね。ありがとうございます」
「これっ、ちょっと特別なカレー粉を使っていたりするんですか」
「企業秘密です。ふふふ」
「あっ、変な意味じゃないですよ。パン作りが趣味なもので……」
「ちょっと高いですもんねぇ」

相手のペースのまま、会話は終了。お釣りを受け取り、店を出ようとする、
「ちょっと待ってください。これも食べてください。もちろん、タダです」
男性がビニール袋に入れたメロンパンを差し出してきた。
「いいんですか、本当に」
「もちろん。メロンパンは作りませんか?」
「まあ、そんなことも……」
というか、パンを作ったことなんか、あるはずもない。

店を出て、「さて、どうしようか」とひとりごとを言ってみた。あえて、口にした。
なぜなら、俺はメロンパンが食べられない。かなり嫌いで、食べるとノドがかゆくなる。
とはいえ、好意でくれたものを、家のゴミ箱にポイッと捨てられるほど、非道ではないし、それは俺のポリシーに反する。というわけで、コンビニの裏手にいるネコに食べさせることにした。仕方なく、五分歩く。

雨が降っていても、ネコはいつも通り、段ボールの束の近くにいた。
そっと近くに寄る。ネコは気配を感じて、ビクッと顔を上げた。
俺はメロンパンを大きくふたつにちぎり、ネコに向かって、ひとつひとつ丁寧に投げた。
ネコはメロンパンを大急ぎで食べはじめた。

一分もかからなかっただろう。ひとつ目を食べ終えたネコは、ふたつ目のメロンパンをくわえると、ゆっくりと歩き出した。そして、コンビニの横にある橋まで行くと、欄干の間からメロンパンを落とした。そして、またゆっくりと歩き出し、すぐ近くに停めてあるクルマの下に潜った。

俺は橋まで歩き、橋の下をのぞき込んだ。そこには、大きな左足のないネコがいた。
五秒後、俺は橋から飛び降りるだろう。これも“俺らしさ”である。
いま、カイの目の前には、十センチ四方のスチール製の箱がある。
三週間だけ一緒に暮らした、ヒロカの荷物だ。ヒロカは昨日出ていった。故意に置いていったのか、ただ忘れただけか。いまとなってはわからない。
カイは箱を開けた。開けなければ、処分もできないからだ。確かに罪悪感はあるが、勝手に見てもバチはあたらないだろう。そう、ヒロカには貸しがある。

「こんなお願いどうかと思うんですけど、少しの間、泊めてください」
カイとヒロカはパチンコ屋で働いていた。ヒロカが働きはじめてから五ヶ月後にカイが働きはじめた。同い年であったためか、すぐに話すようになり、恋の話や人間関係の悩みなんかも話し合った(ほとんどはヒロカが話して、カイが聞いていた。カイはヒロカに悩みを打ち明けなかった)。そのかわり、同い年であったためか、すごくケンカもした。話せる職場に話せる人がいることはいいことだけど、正直、頑固で、素直じゃなく、何よりも気の強いヒロカの性格に拒絶反応を示していた。そんなカイの心中を察していただからだろう、ヒロカは最後まで敬語を使っていた。カイもヒロカとの距離を保つため、敬語を使い続けた。

カイはヒロカを友達とも思わず、ただの同僚と見ていた。でも、周囲の人たちは仲のいい友達のようにみていたらしい。店長に限っては、ヒロカが辞めた日の送別会のとき、「愛する人が近くにいなくなるっていうのは、お前が考えてる以上に寂しいもんだぞ」と僕を慰めていたくらいだから、付き合っていたと思っていたに違いない。
ヒロカが辞めた次の日、正直、寂しさを感じた。ただ、それ以上にせいせいした、という思いが強かった……。ヒロカも同じような気持ちなんだろうと思っていた。
だから、ヒロカが辞めてから四ヶ月後、電話がきたときは驚いた。確かに番号を教えた記憶はあるが、かかってきたことは一度もなかったからだ。何よりもヒロカの携帯の番号さえを知らなかったし、知っていたとしても公衆電話からは不意打ちもいいところだ。

「こんなお願いどうかと思うんですけど、少しの間、泊めてください」
ヒロカはそう言って、カイの家にきた。なんでも貯金が底をつき、アパートを出た(携帯も止められた)ということだった。そういえば、ヒロカは美容師になりたいと言って、仕事を辞めていった。
しかし、美容師の専門学校を卒業していたからといって、すぐ美容院に就職できるわけではない。パチンコ屋で働いていたというブランクも不利な要素だ。しかし、気の強いヒロカのことだから、夢破れて実家に戻ることができなかったに違いない。その上、家に置いてくれる友達もいないという。そこで、カイの登場というわけだ。本当は、そう、嫌だった。でも、ヒロカの丁寧だが、有無を言わせぬ強さを持った物言いに、断ることなどできるはずもなかった。

それから今日までの三週間、ヒロカはカイの家に住み、就職活動をしていた(ようだ)。内定をもらえた、という報告は聞いていない。
いま、カイの目の前には、十センチ四方のスチール製の箱がある。
フタを開けてみた。中にはマニキュアやヘアバンド、小銭、ピアスなどが入っていた。今日までの家賃でも入っているかもしれない、と一瞬期待をしたが、ヒロカにはまだ人間としての常識が、あるいは金銭的余裕がなかったらしい。

箱の中に唯一、僕の目を引くものがあった。一冊の文庫本だ。ヒロカが本を読むなんて、想像できなかった。どうやらエッセイらしいが、作者の名前は聞いたことがなかった。
僕はぱらぱらとめくってみた。と、そこに一本のアンダーラインを見つけた。『私は素直になれないとき、好きな人から離れてみる』
僕の中に、あるひとつの感情が芽生えた。でも僕にはそのとき、その感情を育てる術がなかった。ヒロカはいつか、三週間分の家賃を届けに来るだろうか。
失恋をした。捨てられた。泣いた。叫んだ。怖くて震えた。誰かと話がしたかった。

十年も付きあっていたヒロユキと別れて、最初の土曜日。気分とは裏腹に、天気は快晴だった。いつもならアウトドア派の血が騒ぎ、クルマのキーを握りしめているところ。だけど、キヨミはひとりで休日を過ごすことを忘れてしまっていた。
化粧もせず、服もジャージのまま、アパートを出た。少し散歩をしようと思った。人もクルマの通りも少ない、バス通りを歩く。洗濯物を干している人がかなり多い。そう、まだ午前中。今日は長い一日になりそうだった。

古びた文房具屋を見つけた。建物はおそらく、築三十年以上。その左隣、そば屋さんの建物もかなり古いが、こちらはそれを「老舗だから」と正当化できるだけの客が集まっている。ただ、文房具屋には人の気配がしない。でも、営業はしているようだ。どういう人が働いているんだろう……。どうしても中の様子が気になって、キヨミは文房具屋のドアを開けた。カランコロンと、どこかで聞いた記憶のある鐘がなった。

店内にはお線香の香りが漂っていた。店の中央にあるレジには、怖そうなおじいさんが座っている。接客業とは思えないほどの、鋭く、人を不快にさせる目つき。キヨミがぶつかった視線をそらさないでいると、持っていた新聞に目を落とした。
キヨミは店に入ったことを後悔した。だけど、ここで何も買わずに帰ることも、なんか申し訳ないような気がする。レジの横にボールペンのラックがあることに気付き、レジの前まで行くと、「わら半紙」が束で置いてあった。あまりの懐かしさに、ボールペンを買わず、わら半紙を買った。おじいさんはきっと、わたしを学校の先生だと思っただろう。

アパートに戻り、半紙の束から一枚引き抜き、こたつの上に置いた。鉛筆で名前を書いてみた。その感触に、涙が出そうになった。今度はわざと力を入れて、紙がやぶれるように書いた。ビリッ。テストのとき、これだけのことでどれだけ焦ったか。そう、その音は教室中に響き渡るくらい大きかったっけ。今度は笑えた。
わら半紙に思いついたことをひたすら書こう。キヨミは今日の過ごし方を決めた。頭を使わず、意のままに、思いのままに、本能的に……。
高校三年生になった。最後の夏を飾るべく、ぼくたちのバンド「ダイヤグラム」は、ワンマンライブを企画していた。今までは数組のバンドとともに、ライブハウスで演奏していただけ。しかも、コピーばかり。それでも、ヴォーカルのアツシがいわゆるイケメンだから、結構人気があったりする。で、最後ぐらいはということで、リーダーでギターのゲンが「全曲オリジナルで行く!」と宣言したのだ。そのプランを実現させるため、メンバー全員、春休みはバイトに専念。必死でライブハウス代を稼いだ。そして、四月になった。

ベースのノリユキの部屋が、ぼくたちのミーティングルームだ。この日も放課後に集まり、ライブに向けて打ち合わせをはじめた。とはいいつつ、誰も具体的なビジョンなどない。演出? そんな言葉は一切出てこない。で、何の進展もないまま、夜の九時。そろそろ、お開きになる時間だ。
全員が身支度を終えたとき、ゲンがとんでもないことを口走った。
「ノリユキとタダシ! 一ヶ月後までに、最低一曲、詞を書いてくること。いいな!」
詞はアツシが担当することになっていた。どうやら、アツシが煮詰まったらしい。「俺も書くよ!」と言っていたゲンも同様のようだ。まあ、それはいいとして、ノリユキは普段から日本語がおかしい。まともな詞を書けるわけがない。つまり、ぼくに書けと言っているのだ。ぼくが書かないと、ライブが成立しない。

それからずっと、ぼくはかなり頭を悩ませながら、詞を書いた。はじめはどこかで聞いたことのあるフレーズの切り貼りのような詞。恋愛の詞か、友情の詞か、まったくわからない。あまりにも幼稚だ。こんなものをメンバーに見せられるはずがない。詞が書かれたルーズリーフをビリビリに破って、捨てた。シュレッターよりも細かく。
「自分の言葉で書けることを探そう」。音楽雑誌の作詞講座のページに、そんな言葉を見つけた。締め切りの一週間前に。ダイアグラムの歌? それはリーダーのゲンが書くだろう。そうだ、大好きな野球だ。応援歌っぽい詞になった。犬のジロウはどうか? 問答無用でアニメソング。ぼくが憧れる理想の男? それはもう、完全に演歌である。
そんな感じで試行錯誤を繰り返し、行き着いたテーマは片思い。一行目を書いて、かなり恥ずかしくなった。それで一度は止めようと思ったけど、二行目も三行目も結構スラスラと書けたから、思い切って書き続けることにした。自分のことだから、簡単に書ける。高校の近くのマクドナルドで働く、大学生っぽい店員さん。一度だけ、ひとりでホームにいるところを見かけたことがある。彼女は三十分くらいホームに立っていた。ぼくはその一部始終を見ていた。そして突然、ぼくの前から姿を消した。たぶん、いつか彼女の顔を忘れるけど、そのときの顔は最後まで覚えていると思う。
締め切りの二日前に書き終え、一日前の夜に読み直していると、あることに気がついた。タイトルがないのだ。
食事中も浮かばず、テレビを観ても、風呂に入っても、何にも浮かばなかった。部屋で机に向かってもダメで、音楽を聴いても余計混乱する。結局、布団にもぐり、部屋の電気を消し、詞を最初から思い出してみた。

翌朝、メンバーに詞を見せた。タイトルは無題のまま。
アツシ、ゲン、ノリユキの順番で回し読みされ、ひとりひとりがタイトル案を出してくれた。
「傷だらけのマーメイド」とアツシ。これだから、ナルシストは……。
「バカ野郎」とゲン。熱血リーダー、本領発揮というところだ。
「お星様キラキラ」とノリユキ。こいつはやっぱり、バカだ。
でも、詞についてあれこれと話しているうちに、タイトルが思い浮かんだ。
「ごめんね」。これ以上のタイトルはない気がした。

ちなみに、ノリユキが書いた詩のタイトルは「世界遺産」だった。
ヤクルトのおばちゃんが、ある日突然来なくなった。
いつもオフィスまで来てくれて、いろいろと話をしていたのに。楽しみがひとつなくなった。というより、会社にいる楽しみがひとつもなくなった。わたしは朝から夕方まで、ほとんど誰とも口を聞かず、ただ黙々と伝票を整理するようになった。

おばちゃんが来なくなって、数日が経ったある日。二十代前半のおねえさんがやってきた。新しい担当者らしい。ヤクルトレディはおばちゃんがやるものだと思っていただけに、これには少し驚いた。
おねえさんは愛想が悪い、というより、ちょっと根暗な印象の人。「今日はどうされますかか?」と声を掛けるだけで、あとはお金のやりとりだけ。人と接することが得意ではないのかもしれない。だったらどうして、この仕事をしているのだろうか。

ある日、おねえさんが「今日の夜、空いていますか?」と声を掛けてきた。わたしはヨーグルトのフタをめくりながら、「えっ?」と大きな声で聞き返した。思えば、こんな大きな声を出したのは、久しぶりのことだった。そのあとは終業時間まで、心臓がドキドキしていた。もちろん、仕事は手につかない。「わたし、何かした?」と、トイレに行くときも、お茶を煎れるときも、ずっと心の中でそう繰り返した。

約束の六時ちょうどに、会社の近くの公園に着いた。おねえさんはベンチに腰を掛けて、携帯灰皿を片手にタバコを吸っていた。似合わない光景だった。わたしのドキドキはさらに強くなった。
おねえさんはわたしに気がつくと、素早くタバコをもみ消し、素早く立ち上がった。それにつられて、わたしの歩くスピードも上がった。
「本当に突然、申し訳ありません」
深々と頭を下げるおねえさん。甘い煙の匂いがした。不思議とそのとき、わたしのドキドキは収まった。
「全然かまいませんよ。どうせ暇ですから」
少し笑ってみたが、かなりぎこちなかったと思う。それを察したからか、おねえさんは黙ったまま。わたしも話が得意ではない。聞こえてくるのは、移動販売の八百屋さんが発する意味不明の売り文句と、主婦たちの値切れコール。

「実は母がなくなったんです、先日。あなたと仲良くしてもらったみたいで」
おねえさんは、あのおばさんの娘だったのだ。
なんでもおばさんは、得意先のオフィスに入った瞬間、突然倒れ、救急車で運ばれたそうだ。くも膜下出血で、手術をしたものの意識は戻らず、息を引き取ったという。
後日、おばさんの私物を取りに職場へ行ったとき、人手が不足していることを知った。それが、おねえさんがヤクルトレディになったきっかけだ。おねえさんはそのことを小学生の演劇さながらに、見事な棒読みで話してくれた。きっと、何度も何度もわたしに言うことを予習して話してくれたのだろう。

「というわけで、お礼がいいたかったんです。他のお客さんには冷たくされていたらしくて、おかあさんはわたしにあなたの話ばかりしていました。他に話すこともなかったんだと思いますけど……」
おねえさんはわたしの返事を待たずに去ろうとした。
「ちょっと待って!」

あの日から二ヶ月が経った。
わたしは明日、おねえさんと旅行に行く。ふたりがずっと憧れていたイタリアだ。きっと今頃、大好きなタバコを大量に買い込んでいるはずだ。
アヤはまだ来ない。それはいつものこと。十回のうち九回は、待ち合わせの時間に二十分遅れる。それがアヤだ。学生時代はこうではなかった。何がアヤを変えたのかは、親友であるユウコにもわからない。社会人になって五年も経てば、普通は時間に厳しくなるものだ。どうしてだろう。
ユウコは新宿が好きではない。
友だちとスノーボードのツアーへ出掛けたときのことだ。帰りのバスで新宿におろされた瞬間、「生ゴミ」のような臭いが飛び込んできたことがその理由だった。買い物はする。でも、それだけ。
だから、ユウコは早く新宿を離れたかった。いつもは新宿で呑みたがるアヤに従うが、今日は譲れない。おとといから雨が続いていたからか、いつもより臭いがキツい気がする。アヤを連れて、池袋でも渋谷でも恵比寿でも、どこでもいいから移動したかった。なのに、アヤは来ない。ケータイもつながらない。
ケータイを忘れていたらどうしよう。そう考えると、「プーさんのところでね」そう言っていたアヤの言葉を無視できない。
わたしたちが「プーさん」と呼ぶ占い師。くまのプーさんに似ているからと、アヤがそう名付けた。いつも酔って、プーさんを見つけるとアヤはゲラゲラと笑うが、その人気はバカにできない。たいてい三、四人が列をつくっていて、多いときは十人以上も待っている。
今日もカップルとOLらしき女性が並んでいる。占ってもらっているのは、ホストっぽい男性。それも「わたしはホストです」と宣言しているような髪型、スーツ、腕時計。年齢は二十代前半だろう。その彼が、真剣な顔をして何を占ってもらっているのか。
ユウコはどうしても気になり、プーさんの横で店を構える露店の前に行った。露店とは言っても、拾ってきた雑誌や単行本を地面に並べて売っているだけ。露店というと、露天商に失礼かもしれない。
単行本を選んでいるふりをしながら、左から聞こえてくる声に集中した。
「よく考えてごらんなさい!」
聞こえてくるのは、プーさんの声だけ。
「バカ言ってんじゃないよ!」
左を向くと、彼は小声で何かを言っている。もちろん、聞こえない。
結局、一分も経たないうちにユウコは一冊の小説を手に取り、百円玉を差し出した。アヤはまだ来ない気がして、いつもの古びた喫茶店に向かう。もともと、古本が嫌いなのだ。
アイスコーヒーを注文したあと、小説の裏表紙をめくった。ユウコが生まれる半年前に発刊された本だった。
最初のページは食事の描写が延々と書かれていた。献立、食材、作り方、食べ方。そのすべてに、時代を感じさせるものがあった。古本もなかなか面白いと思った。
次のページをめくると、シーンは夜のドライブシーンへと変わった。そのとき、カバンの中のケータイがブルブルと震えた。アヤからだった。一時間の遅刻。今日は新宿から離れることができそうだ。
同棲中の彼女の愛車は、クーラーの効きが本当に悪い。
車内の暑さに耐えられず、タツヤは急ブレーキを踏む。百メートル先に自動販売機が見える。
缶を頬にあてながらクルマへと戻る途中、遠くから歓声が聞こえた。
どうやら、少年野球の試合がはじまったらしい。直後、懐かしい打球音が響き渡った。
タツヤがその打球音を毎日聞いていたのは、もう十年以上前のことだ。
その頃はもう少し、暑さに対する忍耐力があった気がする。

クルマのドアにキーを差し込むと、足下にボールが転がってきた。派手な色のゴムボールだった。
「すいませ~ん!」
少年野球デビュー前の少年が、大声を張り上げる。
ボールを拾い、すぐに投げ返した。その柔らかい感触が懐かしかった。
足下に生えるつくしも懐かしかった。アスファルトを歩むアリも懐かしかった。
気付かないうちに、目線が高くなってしまっていたようだ。
それも悪くはないことだと思う。ただ、失ったものも多いような気がした。
これからは時間を見つけて、下を向いてみようと思った。そこにはなにかがあるはずだ。
次の試合は、いつだろう。風呂上がりの彼女が飲む烏龍茶は、もうぬるくなってしまった。
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こんな感じで書いていきます。
まだまだですが、頑張っていきたいと思います。
アドバイスやリクエストがあれば、ぜひご一報を。
よろしくお願いします。