あっちこっち…より道したっていいじゃない -12ページ目
公開したら、何よりも優先して観る!
とココロに決めていた映画その②
日本で初めてこの映画が公開されたとき、まだ学生だったワタシは講師の強い勧めで、絶対に観ておくべき映画だと言われ映画館へ行った。当時は一部の劇場でしか公開されていなかったらしい。 東京にいて良かったと思う。 19年たった今、ようやくその「恐怖分子」全国で上映されている。これは、凄いことだ。
感動するとか、涙を誘うとかアクションが凄いとか、その手の映画ではない。 胸がずっと、ざわざわするのだ…。19年たっていても、タイトルを聞けばそのざわつきはすぐ蘇る。福岡ではようやくGW から始まったけれど上映は1日1回のレイトショーのみ。まだ間に合うのであれば、ひとりでも多くの人に体験してもらいたいと思う。
説明はほとんどない。セリフも最小限で、BGM は街の音。銃声と…パトカーと…走る足音とカメラのシャッター。そして鳴りひびく電話。 夜明けの台北の街。。。 カメラ少年 スランプに陥った小説家と医者の夫婦 不良少女 小説家の元恋人 それぞれが朝を迎える…。今までなんの接点もなかった者たちが、少しずつ少しずつ交差してお互いに「きっかけ」を与えてしまう。 1本のいたずら電話が、引き金となって、歯車が狂いだす。
「恐怖分子=テロライザー」は、誰もが持っているのもであり日常のどんなところにでもひそんでいるものだ。そびえる球体のガスタンクをはじめ、メディアやマスコミ…知らず知らずのうちに、いつ暴発するか分からない「なにか」と常に背中合わせに生きている恐怖が、観ている者の気持ちを不安定にするのだ。
年月がたっているとは言え、現代人が抱えているものだって当時と変わっていない。 夫婦の行き違いであったり、少年少女の犯罪であったり、暴動への衝動であったり…。監督のエドワード・ヤンは2007年に他界している。惜しい人を亡くしたと思う。 現代の社会に潜む日常の「恐怖」を、彼ならどう撮っていたんだろう。
19年前の劇場パンフレットがまだ家にあった。 「バタアシ金魚」の松岡錠司と筒井道隆の対談や、シナリオまで全部採録されている。 改めて読んでみると、おもしろい。
公開したら、何よりも優先して観る!
とココロに決めていた映画その①
世の中で1番美しいのは妊婦、だと思う。守らなければいけない命を抱えているのだから、強くもあり優しくもあり、そして妖艶でもある。妊婦の持つ自然の美しさに加えて、この映画のヒロイン(女神!)ヴィディヤは相当な美人だ。「マダム・イン・ニューヨーク」 のシャシもかなりの美人だったけれど、彼女はどこか頼りなく男の人が放っておけないようなか弱さがあった。ヴィディヤは反対。コンピュータを自在にあやつるし聡明で、たくましい。コルカタで行方不明になった夫の捜索にも自ら乗りだしていく。
宿泊先にも勤務先にも夫がいたという形跡はない…夫に騙されていたのかもしれない可哀想なヴィディヤ。もうすぐ子供も産まれるというのに。 親身になってくれる警察官とのロマンスも匂わせつつ…2人は手がかりを追っていく。
誰とでもすぐうち解けられる魅力をもち、その巧みな話術で情報を引き出したりハッキングだって簡単にやってのける。男の人の下心をくすぐる術を分かっていて、そしてなかなかのキレイ好き。ヴィディヤの人となりを丁寧に描写することで誰もが彼女に感情移入したところで… かなりの緊迫感だというのに、不覚にも途中うとうとしてしまった自分が信じられない。どこが欠けてしまったのか、もの凄く気になるのだけれど、それでもめちゃくちゃにおもしろい映画だった。
騙しているのか騙されているのか…前半で散りばめられたいくつものピースが終盤で、磁石で寄せ集められるかのようにひとつにまとまる。嘘、というか仕掛けも沢山あって、うとうとしていたとは言え、バッチリ目も冴えればすっかり作り手の罠にハマっていたことにあっと驚き、爽快感に満たされていた。
外国映画がちょっと話題になると、すぐハリウッドリメイクの話が持ち上がる。 本作も同様、すでにリメイクが決定しているよう。もちろん優れたリメイクも沢山あるだろうけど、ワタシはどうもこの流れが好きになれない
すっかり放心状態…である。 狂気から解放された安堵感と、耳の奥でまだなりやまないドラムの音と…
ネットではいろんな意見が飛び交っているらしいこの映画。初めて予告を観たときに、これは絶対に行かなくちゃ!と決めていたから、正直、誰がなんと言おうとワタシは気にしな~い。仲良しブロガーさんたちのレビューは読むけど、評論家の意見あれこれは完全にシャットアウト(笑) とにかく、ワタシはドラムの音が大好きで…音楽には疎いし音符なんてひとつも読めないけれど、ドラムの奏でるリズムは身体を直撃する。その響き、その余韻がたまらないのだ。 ワタシは、DRUM TAO の大ファンでもある。TAO は和太鼓だけれども、舞台に立つパフォーマーたちはその肉体を鍛え上げ、地獄のトレーニングを乗り越えて伝統と美と芸術を見事に融合させたステージを創る。 TAO の音は、お腹の奥底深くに重たく響く。そして…「セッション」の奏でるジャズドラムの音は、ビリビリとココロに響いている。 激しいあのラストシーンを観たあとでもずっと。
音楽映画、ではなかった。 夢と期待を胸にいっぱいに、ジャズ音楽学校に入学して来るニーマンだけど、待ち受けていたのは鬼教授のフレッチャーだ。虐待にも近いような過酷な試練、来る日も来る日も狂気のレッスンを強いられ、それでも頂点へ登りつめようとするニーマンの強い想い。葛藤に苦しみながらも絶対に諦めないその姿は、どこかマゾヒスティックでさえある。 ニーマンのモチベーションをそこまで高めていたものは一体なんだったんだろ。 意地?プライド?それとも復讐? そしてニーマンは何に救いを求めていたんだろ。
ニーマンとフレッチャーそれぞれの抱く、音楽への愛は痛いほど感じる。 愛…時としてそれは、歪んだ形をしているものなのだ、と痛感。 罵声を上げニーマンを心身ともにボロボロの状態にしたとしても、フレッチャーだって人間だもの…ココロの奥底では温かさを持っているはず。 ところが…(笑) 褒めるだけが才能を伸ばす方法だとは思わないけれど、なんとも壮絶な闘いだった。
ワタシが怒られている訳ではないのに、フレッチャーの怒鳴り声にビクッと身体が反応してしまうし、笑いは一切ないし、ニーマンがもっとイケメンなら良かったのに、と思うけれど…これは、おもしろい作品だ。 gleeの女の子がニーマンの恋人役で出ていた。とても可愛らしくて、gleeでは歌も抜群に上手い子。この映画では、彼女だけがほっとできる癒しの力を持った天使だったなあ笑 帰り道、商店街のアーケードの夜間工事があっていて、タイルを埋め込む小刻みな音が、カンカンカンカンコンコンコンコントントントントンとテンポ良くこだましていた。どっかから It's not quite my tempo!って怒鳴り声が飛んできそう、なんて思ったりして(笑)
ワタシだって、誰かのココロに舞いおりる天使のような人でありたいと思う。「横道世之介」 のような…ふとした時に思い出してもらえて、出逢えたことが宝物だと思ってもらえるような、そんな人。 カナダとの国境に近いメイン州の田舎町ギリアドにやってきたパーシーもきっと、誰もの記憶に残る、そんな人だったのだと思う。
刑務所での5年の刑期を終えたパーシーは、美しい森にかこまれたギリアドの小さなレストランで住み込みで働くことになる。 新しいことが起こらず、変化に乏しい町。閉鎖的だけれども、それ故に調和のとれているこんな町では、よそ者はなかなか受け入れられない。レストランのオーナーのハナやごく一部の人を除いて、誰もがパーシーの過去に好奇の目を向けるだけで、彼女にココロをひらこうとしない。 人は誰でもココロに傷を持っている… 犯した罪をつぐないはしたけれど、まだ生まれぬわが子の命を亡くした傷は癒えることのないパーシー。 ベトナム戦争から帰らない息子を想い続けるハナや、夫に馬鹿にされてもんもんとした毎日を送っているシェルビー。 森から出てくることのできない‘ジョニー・B’ だってそう…。この小さな町で暮らす誰もが、前に1歩をふみ出すきっかけを待ってた。 美しいギリアドの町と自然。ここは、インディアンの伝説で「神が最も美しい土地だと降臨した」ところなのだとか。パーシーはこの地に癒しを求めて、新しいスタートを切ろうとしている。ココロが洗われるような大自然の中でなら、きっと辛い過去も忘れられる…そう信じて。
ハナは実は何年も前からレストランを売りに出しているのだけれど、買い手はなかなかつかずにいる。 そこで、パーシーのアイディアで作文コンテストの優勝者に店を譲ることになる。全国から集まってくる作文のひとつひとつに、それを書いた人の人生が垣間見え…新しい場所で新たなスタートを切りたい、という願いが込められている。その作文を町の人みんなが読んでいる姿にココロが温まる。町の人もまた、新しい風を受け入れようと、少しずつ変わってきているのだ…
なんとなく邦題に惹かれて観た映画。1996年サンダンスで観客賞を受賞していたらしい。 レストランの新しいオーナーが決まってパーシーはみんなの人気者になって誰もが幸せ…では、この映画はただの良い映画。。。そうはいかないのが人生の皮肉なところでもあり、この映画がよりココロに残るところでもあり。 ここから、という時にパーシーを襲う不幸が、なんともココロに重くのしかかるのだけれど…自らの命とひき換えに周囲に幸せをもたらすパーシーは間違いなく、これからのこの田舎町が生まれ変わるために舞いおりた「天使」だったのだと信じたい。
良い映画…らしい。 ワタシがこの映画について知っていたことは、たったコレだけ。 あらすじもレビューも読んでなかったし公開当時のことも全く知らなかったので、カラーになりたてくらいの、もっともっと古い映画かと思ってた。 2000年と言ったらまだついこないだ。でも一番ワタシが映画から離れていたころ、だったからなあ。
イギリス片田舎の炭鉱の町。母を亡くして…父と兄はストで仕事がなくイライラしてて…家には少々ボケたばあちゃんがいて…貧しくてバラバラな家族の中にいる少年ビリー。男なら当然、とボクシングに通わされているけど、たまたま目にしたバレエのレッスンに興味を持つようになる。男がバレエとは何事か!と父は怒る。 ビリーの素質を見抜いた先生の好意でこっそりレッスンを続けて、めきめき上手くなっていくけれど… 「良い映画、らしい」…なんてものじゃなかった。これはもう、素晴らしい映画だったこのまま、もしビリーに出逢えてなかったら…きっとワタシの人生は、小さな何かが欠けたままだったかもしれないな。
ビリーがダンサーとして成長していく物語の魅力だけではない。偏見を捨てて、息子を受け入れようとする父の成長物語の一面がまたココロをうつ。当時の、炭鉱の町が抱えていた問題がどういうものだったのかは無知なワタシは詳しく知らないのだけれど…家族の中での母(妻)の不在が、誰もに深い傷を残していたのだということは痛いほど伝わってくる。18歳になった時に、と亡き母がビリーに残した手紙…「ボクもう読んじゃったよ」 その手紙の一言一句は少年の頭の中に記憶されている。
まだまだ甘えたいことだってある11歳の少年が、ひとりで抱えるには重たすぎる…父も兄も、また皆がひとつになるきっかけが欲しかったんだろうな。ぶつかり合っても、またひとつになれるのが、家族。 社会問題や家族ドラマ、淡い恋だったり、サクセスストーリーだったり…どれかひとつだけが主張しすぎる、ということはなくほど良いバランスがとれていると思う。だからこそ、あのラストが映える。バレエなのに、音楽もクラシックに頼ってないところもいい。ビリーの苛立ちの全てをぶつけたかのようなタップのシーンは圧巻。ストのシーンに合わせてThe Clash の「London Calling」が流れたときには身体がゾワゾワ。
誰ひとりとして知っている俳優さんがいなかったのだけど、少年ビリーも父も、とても魅力的な美男子。あとから、監督が「トラッシュ!」の人だったと知って、ワタシはこれを観逃したままになっていることを思い出した。早速、DVDを借りに行こう。
またしても、ステキな映画との出逢いに感謝。さあどうぞ召し上がれ、と目の前に出されたお皿に、色とりどり山盛りの果物があるとする… ひと目それを見たときに、「わあ大きないちご!美味しそ~」と喜べるか、「えっなんでバナナがあるの?好かんっ」と、しかめっ面をするか…。 生きることを楽しめるかどうか…ってのは、要はこういうこと。 大嫌いなバナナが同じお皿に盛られていることは事実だけど、それよりもいちごに目を向けて喜べるようになったら、生きることはとても楽しくなる。 良いものを見よう、楽しいものを見ようって心掛けるだけで、本当に物ごとが明るく見えるのだから、人間の持ってる力ってのは凄い。 映画とは関係ないのだけれど…お寺の住職さんのお話をききながら、ワタシは果物のお皿のことを考えていたのでした
実はワタシ…ウォシャウスキー姉弟の映画ってわりと好きで、SFアクション大作となれば大いに賛否両論はありそうだけど、密かに公開を心待ちにしていた「ジュピター」
まず…リメイクやアニメの実写、小説・コミックの映画化作品があふれる中、これが2人のオリジナル作品であるというところにワタシは敬意を払いたいと思う。 チャニング・テイタムは決して好みのルックスではないのだけれど、鍛えあげられたあのマッチョな身体は目の保養 笑…「マジック・マイク」 のストリップが頭をよぎる。 戦うために遺伝子操作されて生まれてきたなんて素敵。思う存分、戦っていただきたい! とにかく壮大なスケールで描かれる兄弟げんか…的なお話。 宇宙最大の王朝に支配されている地球。王朝ではマザコンの3兄(姉)弟、バレムとカリークとタイタスが権力争いをくり広げており…同じころ、地球では家政婦として働いていたジュピターが何者かに襲われる。3人兄姉弟それぞれが自身の目的のためにジュピターを狙っていたのは、実はジュピターが王朝の王族であったからだ…そこで現れるヒーローがケイン。彼に助けられながら、3人の野望から地球を守るべくジュピターは戦いに身を投じていく。。。
圧巻の映像美と、緊迫感ばっちりのアクションとスピード。映画館で観て決して損はない。色使いのセンスは相変わらず光っているし、ウォシャウスキーの描く宇宙空間や衣装も映える。ただカッコ可愛いだけじゃないミラ・クニスの魅力も爆発。 チャニング・テイタムだって今までこんなにイイ男だと思ったことなかったし(笑) いつでもどこでも、ジュピターに危機が迫ればシューっと飛んできては(ホントに飛んでくるw)拐っていくように助けてくれる。オオカミとの混血で、尖った耳がチャームポイント(笑) 背中にはもぎ取られた翼のあとがあって…ここはちょっと胸がキュン、となるとこ。 反重力のブーツで颯爽と空を飛ぶ姿がカッコ良すぎる。 はっ これではまるで、チャニング・テイタムのファンみたいだ…。
「天空の城ラピュタ」で、捕らえられたシータを燃える塔からパズーが救うあのシーンと同じくらいのドキドキ感。全編を通して、何度も何度もそんな危機的な場面はやってくるもんだから…ワタシの中にだってまだ多少残っている乙女心がびりびり刺激されてしまう とてつもない家族げんかを、馬鹿まじめに撮ってくれたアンディ&ラナ・ウォシャウスキーに、ありがとう。「クラウド・アトラス」ほどの深みはないけれど、単純で分かりやすいのはありがたい。静寂なシーンはほぼ無く、BGMも濃厚、そして壮大。 空飛ぶバイクに乗ってペ・ドゥナも登場。他にもユニークなキャラクターが沢山いたし、いろいろなSF映画へのオマージュはありそうだけれど、もともと疎いジャンルなのでワタシにはよく分からない。それでもワタシは、決してこの映画キライじゃない。
母が松本清張を好きで、その影響もあってか彼の小説は高校生の頃から何度となく読んでいる…この「砂の器」も然り。映画は今回、初めて観たけれど、誰もが高く評価しているとおり、推理小説の映画化という枠を超えてこんなにもココロ打たれるものだったのかと、後半ぼろ泣き。
長距離の移動は夜行列車、地図を広げて地名を探し、照会文書の回答が郵便で届くのを待ち…ネットもスマホもない時代、たったひとつの殺人事件の真相を追うのも気の遠くなるほどの忍耐力と時間をかける。 行き詰まればやがて捜査本部は解散し、任意捜査に切り替わる。あとは、ひとりのベテラン刑事の執念と、人情と責任感とでひとつひとつ、わが足で謎を解いていくしか解決への道はない。 手がかりになるのは「かめだ」と東北なまりの言葉だけ…
殺されたのは「善良」という言葉をそのまま形にしたような三木という男だった。 身を粉にして調べ上げた今西の働きの末、ようやく犯人として浮かび上がったのが音楽家として人気の和賀…。 息子のように和賀を想い続け、必死にあとを追いかけて来た三木を、無惨な姿に変貌させてしまった和賀。彼がなぜそうせざるを得なかったのかを考えれば、ワタシ達は一体どうして彼を憎むことができよう。
戦後の混乱に紛れて戸籍の偽造までして、ようやく手に入れた天才音楽家の地位と名声。彼の過去を知る三木が現れてしまっては、なんとしてでも自分を守りたいと思ったことだろう。ハンセン病の父を持ったことで、偏見の目を向けられ迫害され続けた少年時代だったのだ…。
交響曲と、父と子の放浪の旅と、捜査報告の会議と…見事な三重奏。「宿命」の旋律にのって、ワタシ達が目にする父子の姿は和賀の記憶か、はたまた今西の想像か…旅の形こそ変われど、永遠に続く親子の宿命。それをずっと背負ってきた和賀の苦悩は計り知れない。 三木(緒形拳)の、人を想いやり手を差し延べようとする熱い気持ちにココロを掴まれ… 和賀(加藤剛)の、悲しくも美しい、父との時間に涙。 今西(丹波哲郎)の、真摯でまっすぐな瞳に心強さを感じ… 父(加藤嘉)が叫ぶ最後の一言にはぐさっと突き刺さるような衝撃を受ける。 原作の素晴らしさは当然のことながら、映像化するに当たってのプロットの取捨選択・脚本・編集、すべてにおいて完成度が高い。 かつて、不治の病とされたハンセン病を発病することは、なにか罪を犯したことと同じように見られていたらしい。1人でも、親族に発病者が出ようものなら、その一家は周りとの関係を絶たれ一家離散に追い込まれてしまうことさえあったという。松本清張はこのハンセン病への偏見がまだ根強かった時代を背景にこの小説を書き、差別の壁を打ち破ろうとしたのかもしれない。 「第2回 新・午前10時の映画祭」の上映も本作で終了。 今回、劇場に行けたのはその内の9作。まあまあかな…。 これからも、ずっとずっと続いてほしい。
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