某大学付属に通ってた時の話。

高校2年の9月で停学をくらった。

2週間だった。

毎日学校に行きゃ反省文を提出する毎日を送る。

停学がとけ、数日後また退学をくらう。

理由は書けないが、大事になった。

期間は1ヶ月と2週間。

そして、日に日に学校や担任の末木先生を罵倒するようになり、
学校にも行かず、
最終的には退学をした。

退学を校長室で校長と学年主任から言い渡された時に、
ボロクソ罵倒し、話し合いの途中で追い出される。

そして、数日後荷物を取りに来るように言われ、
学校に行った。

正直担任を馬鹿にしてた。

でも学校に行くと担任が待ってた。
「荷物をまとめたら呼びに来て」
と言われ、教室へ。
荷物をまとめ、職員室へ…。

職員室から出てきた末木先生がポツリと呟いた。

「まだタバコ吸ってるのか?身体だけは壊すなよ」

その言葉を最後に去った。


でも、校長室で罵倒しまくった学年主任に挨拶をしなきゃいけないと思い、数ヶ月後学校へ。

職員室へ行き、
学年主任へ。

学年主任が大嫌いだったが、
いちを挨拶をするのは礼儀だと思いね。

職員室の前で待たされた時には
学年主任から校長室での件で怒鳴られる覚悟をした。

そして学年主任に会う。

学年主任がまず最初に言った。

「あなた末木先生には挨拶したの?」

と…。

してないと返事すると次に言った。

「あなたが停学になった時、末木先生後悔してたのよ。
で次の停学の時に正直あなたを辞めさせるか学年会議で多数決になったのよ。
そこで過半数以上になり、あなたは退学になりかけたのよ。
そしたら、普段ニコニコして何も言わない末木先生が急に立ち上がり、

『待ってください。あいつを修学旅行にも連れて行きたい』
『あいつは問題児かもしれないけど、あいつにも良いところはあるんです。あいつが大学に行くまでは、絶対私が面倒見て、1人の大人にさせるんで、退学だけは止めてください』

って大きな声で真剣に頭を下げ続けたのよ。
退学が免れるまでひたすら頭を下げ続けたのよ」

と…。

最後に

「今から末木先生呼んでくるけど、今言った話しは本人には言わないでよ」

と言い学年主任が末木先生を呼びに行った。

毎度の事ながらニコニコ出てきた。

そして謝った。

すると

「お前が居なくなって寂しいじゃねーかよ。
お前の唯一の良いところは、素直で嘘をつかないとこが俺は好きだった。
でも、時にその素直さがお前を悪い方向に追い込むかもしれないし、
これから辛い事も体験するだろうけど、頑張れよな
また大人になったら会いに来いよ」

と言われ、最後の学校となった。

学年主任からのエピソードを聞きながら、その場では涙は出なかった。

でも、帰りに皇居でタバコを吸ってると
学校は嫌いだが
末木先生への罪悪感
末木先生の行為を無駄にした後悔
末木先生への感謝
が押し寄せ涙を流した。

きっと今まで生きてきた中で、
これ以上、俺を守ってくれた先生も居なかったし、
本当に心から尊敬した先生。
これを越える先生にはまだ出会ってない。

そしてその日を最後に会ってない。

会いたい気持ちはある。

でも、
俺が1人の大人として成熟したか。
となるとまだだと考えてる。

だから、就活後に会うのがベストなタイミングだろう。

これが、
俺と恩師の物語だ。
俺の家は離婚してる。

小1の時、土曜日小学校から帰ると親父は居なかった。

そして事後報告で言われた
「お母さんとお父さん離婚したから…」

と。

まぁ月に一度親父に会う機会は許されてた。

そして中2の時に一度、文京区の家を出て、親父宅に追い出された。

一年後、文京区に戻った。

そして男子校で
「お前は高校には上げられないから他校に行け」
と宣告される。

まぁ元々素行不良のクラスだったから仕方ない。

で偏差値を2ヶ月で20上げ、当時偏差値はまぁまぁの大学付属を2校受かり、可愛い子が多く、文京区から近い学校に行った。

でも高2で停学を何度かくらい辞める。
母親から
「お父さんに行ってもらうから」
と言われ、校長室で退学についての話し合いになる。
でも、俺がブチ切れ、話し合いの最中追い出され、
そのまま去った。
(このエピソードには深良い話しがあるから後日)

そして、親父と母親と俺が10年ぶりに対面する。

母親と怒鳴り合いをする俺。
母親は言った
「あんたは本当にクズだ」
「うちはラブホじゃないんだから」

そして、親父宅に行った。
そして違う高校に通う。

そこから2年間母親とは音信不通だった。

でも、ある日、文京区に大切な私物を取りに2年ぶりに帰宅した。

多少会話した。

まぁ俺がガキだったのは言うまでもない。

そして、彼女に会わせろと言ってきた。
「うちはラブホじゃないんだから」
とか言ってた母親が…。

そして会わせた。

そして月日が経ち、
母親との仲も今は多少は改善された。

そして母親は言う。
今ずっと言うことがある。

「あんたが愚れてた時、あんたのそばに居て、話ししてくれたり支えてくれたの◯◯ちゃんでしょ?感謝しなさいよ」
「◯◯ちゃん元気?私は◯◯ちゃんと翔太に結婚して欲しい」
「キャバ嬢みたいな子だけど、あんたには◯◯ちゃんが合ってる」
と。

まぁそのたびに

NO

って言うけど…。

でも母親は最後にポツリと言うことがある。

「戻ってきて欲しいけど、
別に翔太がお父さんと暮らしたいなら暮らしても良いけど、
もし翔太が将来結婚して子供が出来たら会わせなさいよ。
それでデートとかする時は、
お母さんがデートの間は面倒見るから。
そんくらいしか楽しみないからさ」

と…。

そして母親は今50歳になる。

離婚してるし、
美術館に飾られる程の腕前の画家であり、公務員として働いてる。
でも定年後は、実家に帰り画家の方だけに専念するらしい。

元々話し合いで文京区の家は、将来俺の物になるって事がガキの頃から決まってるしね。


でも母親の定年まであと10年。

迷惑かけてきたし、
それまでには、母親に孫を見せてやりたいと思う。

これが
俺と母親のおかしな関係だ。




長くなるのもあれだから、
とうとうラストになります。

石巻に居て台風を経験し、冠水により道は海水、雨水だらけ。
膝まで海水だらけな為、危険と判断。

もともと、石巻からの在来線が終日運休と言う事もあり、ひとまず仙台へ…。

仙台に着くが、
仙台も地震の影響で地盤沈下が起き、雨水がくるぶしまでは来てた。

野宿は危ないからホテルを探す。
ビジネスホテル・カプセルホテル計20店舗全て満室…。

ひとまず仙台に精通しているだろう元カノに電話。
電話の意味なし…。

ひとまずトイレを借りに、閉店間際のビルに…。
携帯は電池を考え見てないし、テレビ、新聞とも無縁な為、台風の詳しい情報を聴く為に警備員に話しかける。
色々教えてくれて、優しい警備員さんだった。
ありがとう…警備員。

ちなみに仙台も台風真っ最中…。

仕方ないから、駅前の漫画喫茶へ…。
しかし、漫画喫茶も原因不明の停電により無理‼

しかし、仙台市若林区にデカイ漫画喫茶がある…。

流石に足も限界だし、
タクシー乗車。

基本、俺タクシーとか話しかけるタイプの人間。

観光地から地震、台風とか色々会話して、漫画喫茶到着。

その名も自由時間。

福島では自由空間に入り、
仙台では自由時間。

デカい…ひとまずデカい。

会員カードを作った。

店員が気を利かせてくれ、6畳の和室。
4日ぶりの風呂に入り、テレビを見ながら就寝。

朝8時に起き、
会計を済ませ、タクシー乗車。

東北放送、仙台放送、テレビ宮城を就活で受けるから地の利を知らないと行けないし、在来線もないし、
観光地へ。

もちろんタクシーの中も会話、会話、会話の嵐。

会話から学んだことを数個…

•地震の影響で石巻、女川町とかはやはり地盤沈下してて、
•更に、地震の瓦礫撤去やボランティアは半島などを優先的にやるから雄勝町や女川は手をつけてないらしい。

•やはりボランティアには感謝してるらしい。

•青葉城に天守閣がない理由は、伊達政宗は徳川家康を倒してから造る予定だったが、徳川家康に疑われ、結局なにも出来ずに亡くなった。

•青葉城と伊達家の家来の将軍の間に奥州街道があるのは、城がどんなやつが来たか観察するように…。そして家来の将軍も全て青葉城に向けて門をたて常に観察されてた。

•たいてい国立大学は市に一つなのに、仙台市には東北大学、仙台教育大学があり、珍しい。

そして青葉城到着。

あの有名な伊達政宗の銅像に行く予定が、運転手さんが
「あの伊達政宗の銅像は、空襲でやられて3代目なんだよ。1代目が頭だけ残ってるからまずそっちに行こう」
となり、
1代目へ…。
1代目は空襲でやられて塩竈市の民家の裏に転がってたらしい。
そして3代目へ…。
そして青葉城の地図を見ながら歴史を教わる。
伊達政宗の墓の位置から、
どうしてここに墓をたてたかとか…。


そして仙台市最古の建物、大崎八幡宮へ。
ちょうど、昔何千人も投身自殺をした崖を通るから見学。
そして大崎八幡宮へ…。
大崎八幡宮の本来の駐車場は殺人事件があったから潰され、
人目に付く場所に新たに出来たらしい。

大崎八幡宮には麒麟。
そして天皇から伊達政宗は許されたため、大崎八幡宮には天皇家の家紋が無数に…。
当時の仙台市は金の採掘地だったらしく、
キンキラキン。

そしてまた市内に向かう。

そのタクシー運転手は
元楽天の野村監督を乗せたときの話や仙台人の特徴を教えてくれた。

仙台人は
「ブスの仙台、イケメンの仙台」
と言われてるらしい。

可愛い子は
石巻や名取市、松島とかから遊びに来てる子らしい。

色々書ききれないほどタクシー運転手から学んだことがあった。

そして市内で降りた。

俺が感じた県民性としては

茨城県民は人見知り。
福島県民はマイペースで人見知り。
宮城県民はマイペースで人懐っこい。

仕事に関しては、
茨城県民仕事が遅い…
福島県民マイペース…
宮城県民努力家。(特に宮城県女川町のセブンイレブン)

女の子に関しては、
茨城県民可愛くない…
福島県民原石は多い…
宮城県民可愛い子多い…

俺が見た可愛い子は
福島県国見町のハシドラッグの優木まおみ似の店員。
福島県郡山で看板を見てたロンスカの女の子。
福島県福島市でハットを被りながらチャリに乗ってた美人。
宮城県名取市の焼肉屋前を大量に歩いてたJD達の2人。
宮城県仙台市のカフェに居たギャル。
仙台駅に居た半分コーンロウのダンサーっぽいJDでした。



しかしさ、
チャリで色々いって来てさ
地震から県民性とか色々学べたし、
余所者で更にチャリで来た人間に対しても、
優しく話しかけてくれたり、丁寧に道を教えてくれたり、
すげー良い人が多かった。

当然、
震災の爪痕はまだ残り、
家族を亡くした方も多く居ただろう…。

辛い気持ちはどこにもあるだろう。

福島県民は原発•放射能。
宮城県民は地震。

それでも、皆暖かい。

皆、必死に働き頑張ってる。

まだ悲しんでる方も多く居た。

それでも、皆地元や地震被災地が立ち上がり、復興出来るように頑張ってる。

悲しい現実より希望や夢を持ってる方が多く居た。

俺は、この旅で1番学んだのは、
被災地の現状ではなく、
人の強さや人の心を学んだ。

以上。

今回で旅の話し終わりです。
前回の続きです。

道の駅まで進んで野宿しようとした。

しかし、国道を走ってるのに、チャリ人はおろか、車すら少ない。

多少進んだら、
通行禁止の文字。

なんと台風のせいで土砂崩れが起きて通行禁止らしい。

もう北には進めない。
陸前高田市も気仙沼市までチャリで行けない…。

じゃぁ電車で行こう‼
と決めるも在来線全て終日運休。

電車も車もチャリも無理。

朝9時くらい。

ひとまず、あったトイレに入り、
携帯の充電をしながら会議。

参った。

ってことで、
深夜に寒く遭難しかけた雄勝町、女川町にもう一度行くことに…。

農家の人に話しを聞いたらやはり
「今日気仙沼市や陸前高田市に行くのは厳しい」
「雄勝町ならボランティアの可能性ある」
と言われる。

寝てないし、身体の限界でチャリをこぐのすら辛い。
むしろチャリを跨ぐのすら痛い。

山道で下半身パンツ一枚になり、スプレー、湿布を貼り、
頑張り、
雄勝町着。

深夜は街灯すらない真っ暗だが、日が出ると違う。
瓦礫の山に、津波で流され公民館の上に七割乗ったバス(アルバム参照あれ)
落ちてるものは
泥だらけのリコーダー
汚れたドラえもん
写真アルバム。

人が暮らしてた痕跡が無数に…。

街には瓦礫撤去の業者数人。

ってことで
瓦礫と水たまりをかき分け無許可で小学校侵入。
中には蜘蛛の巣。
床には症状や教科書。
壁には死者○人、要救助者○人の文字。
裏には流されて来たボートや車や瓦礫の山。

ひとまず街を見学し、
台風の影響でヤバイし、ボランティアないから、
女川町に向かう。

しかし、山道で前から大転倒をする。
精神的にイラついた。

そして3時過ぎに女川町へ。

暗闇でわからなかったがこちらもまぁひどい。

腐敗した匂いに群がるカモメ。
泥だらけのヴィトン。
建物に突っ込む車。

女川町の女川港の廃墟と化した魚市場にも侵入。

漁船が留まる場所に軍隊が居たと思われるプレハブ小屋。
その施設を起点にしていたことがわかった。
しかし、海は大荒れ。
リアルでヤバイ状態。
一旦石巻に引き返すことに…。

しかし、道にはもう海水だらけ。
排水溝から水が逆流し、湧き上がる。

女川町から石巻に向かうが、
石巻も女川も共に、港町。
更に地震の影響で地盤沈下し、
更に水だらけ。
石巻についた頃には、
膝まで海水。

膝まで海水の中、
チャリをこぐ。

もちろん進まない。

そして気がつきゃ冠水のために通行禁止エリアに居た。
そしてニュース番組に映され…
(数々の皆様から千葉翔太がニュースに出てる連絡ありがとう…見てないけど…)
そんくらい海水まみれ。

石巻のおばさんが話しかけてきて、
お互い冠水してて危ない場所を報告しあい、
お互い
「気をつけてくださいね」
を最後に別れる。

今まで台風で人が亡くなるなんてありえるの?
と思っていたが、台風は人を殺せるだけの威力があると確認。

そして石巻の街を見るとシャッターを閉めてる。

シャッターがない店は店の中まで海水が浸水し、ものが浮いてた。

下手に動きたくないが、
仕方ないから仙台へ向かった。


次が疲れたからラストで
仙台での14時間について書きます。

ばいちゃ
前回の続きです。

朝8時くらいに、朝公園の土管の中で目を覚ます。

下半身が冷たい…。

土管の中でコンタクトをつけると、豪雨で土管の中にまで浸水。

子供用土管の中で寝る俺。

でも上半身裸は大丈夫。

なぜなら俺の尻が堤防と化し、強風で押し寄せる雨で出来た波をお尻がSTOPさせてた。

それから、市役所と臨時スーパーが合体した施設へ。
携帯の充電といつ飯を食えるかわからないから食べに…。

携帯の充電が終わるまで中や人を観察。
各地から送られてきた千羽鶴や、手紙。
行方不明の方を探す為の捜索願。
市役所に震災関係の資料を取りに行く人。
ただ遠い目をするご老人。
寝てるご老人。
久々の孫との再会で抱き合う家族。

人は居るが、断末魔のような静けさ。

3時間くらい見て、ひとまず、日和山へ…。

地域復興を目指し、応援してるサンドウィッチマンの番組のロケ車発見。
中にはサンドウィッチマン。
頂上に行くと海側は微塵もない状態の中にある、数軒の家と瓦礫の山。
(mixiのアルバム参照あれ)

豪雨で寒いし、
この数日で10時間も寝てないからサウナ石巻に行き、休憩する予定が地震で閉館してた。

ひとまず時間あるし、
陸前港まで54キロだし、
少し遠回りをし、女川方面から向かうことに。

女川に向かう途中、台風で色々ヤバイから、新しい頑丈な雨具を購入。

すると100メートルくらいするとすぐパンク…。
台風の中、
路上で修理に1時間食う。
この時点で夕方17時。

修理し、
また進むとまたパンク。

直して片方のコインランドリーが潰れてると言うことでもう一つのコインランドリーへ。
コインランドリーに向かう途中のセブンイレブンで仕事が出来る同年代の女の子に、心の中で応援。
そして、
コインランドリー。

飯を食い、気がつきゃ爆睡。

3時間後に目を覚ます。
23時くらいかな?
そこから、女川港、雄勝町経由で陸前港に向かう。

この時には足は既に歩くのですら困難。
塗り薬を塗り、コールドスプレーで冷やし、湿布を貼り、コンビニがありゃレッドブルを飲みまくり、脳内覚醒をさせ、
疲れと痛みを忘れようとしても忘れられない痛さになっていた。

女川港に着く前には、深夜0時になる。

震災で全て流された為、
街灯も車もない。
ひとすら居ない。
聞こえるのは、強風と豪雨とカモメの声だけ。
見えるのはチャリの明かりの部分だけ。
数メートル先すら確認出来ない。

途中で、津波に飲み込まれた、女川魚介市場を発見し、侵入。
無造作に置かれたチャリ。
天井は抜け落ち、ケーブルが吊さられてまくってる。

この時には深夜1時過ぎ。

そして女川港を出て、目指すは雄勝町。
距離にしたら30キロくらいかな?

しかし、山。

当然街灯も車もないし、ましてや人なんていやしない。
街灯もないし、山道だし、腐敗した匂い。
携帯の電波すら入らない。
更に台風の中。
そしてチャリをこぐのすら痛む足。

確認出来たのは山に居ることだけ。

暗闇に台風、数メートル先すら見えないと、本当に精神的にも、肉体的にも辛い。
休む場所すらわからない。
携帯の電波すら入らない。

リアルに遭難しかける。

途中のトンネルに入り、地図を確認。
当然電波がないからわからない。
ひとまず、前に進むのみと前に進む。

すると、廃墟群に入る。
街灯はないが、わかる廃墟と瓦礫の山。
深夜3時頃とある町についた。

だが街灯がないからどこかわからなかった。
街を出ようとしたら
「全国のボランティアの皆様ありがとうございます。
雄勝町 絶対負けない 必ず 勝つ」
の垂れ幕発見。
街灯はない暗闇に真っ白な垂れ幕だから読むことが出来た。
そこで雄勝町に居ると認識。

そこから街灯がない山道にまた入る。

北上大橋を通り、陸前港に行く予定だった。

そして朝5時前に北山大橋に着く。

しかし、車も人もない山道をこいだが人が居ない。

牡鹿半島を繋ぐ橋である北上大橋。
着くと交通禁止の文字。
だが、それ以外に行く道がない。

台風の中、チャリを押しながら、暗闇を電池がギリギリの懐中電灯片手に台風の影響で氾濫しかけてる北上大橋を渡ろうとした。

なぜ交通禁止かって?
デカイ橋なんだけど、津波で流されてた。
それが今まで人と会わなかった理由だろう。
1人で懐中電灯を持ち、進んだが、リアルで今渡ったら、台風の影響で氾濫した川に飲み込まれ、死ぬと思い、交通禁止の看板の前まで戻る。

違う道を探す。

10キロ違う道を石巻方面に戻れば、飯田大橋がある。
渡れるかわからない橋を渡れるか確認しにまた進む。
台風で強風。
向かい風で、
足はボロボロ。
だが行くしかなかった。
戻るわけには行かないと判断したから。

朝7時前に飯田大橋に着く。

無事渡れた。

急遽国道沿いに行くことを決め、
野宿場所を探す。

コインランドリーで寝ようとするが、混んでる。
なぜなら近くに避難所があるから。


寝ないとヤバイと思い、飯田大橋から見えた支部の市役所に行く。
雨風凌げるから野宿するつもりが、
避難所になってた。

俺の中で、
避難所で寝ると言うのは被災地や被災者に失礼だと判断し、
陸前港の道中にある道の駅まで行って寝ようと決意した。

そしたら、
また問題が出た。

それは次回にでも書きます。

チャオ(`_´)ゞ
前回の続きです。

結局自由空間で3時間しか寝れず、朝を迎える。

痛む足と寒さでOPP…。

この時には100メートルこぐのですら辛い。

更に雨が降る。
伊達市のサンクスでゴミ袋を買い、リュックとショルダーバックをゴミ袋で包む。
地面を踏みしめる感覚より、痛さが上回る中の雨はしんどい。

あまりに辛いから、国見町のハシドラッグへ。
優木まおみ似の女性に惚れてしまう。
ハシドラッグでは、足の痛さを緩和する為の薬用コールドスプレーと薬用湿布を買う。
お店を出た瞬間に下半身はパンツ一枚になり、
コールドスプレーでキンキンに冷やして、湿布を貼る。
そこからまた山に入る。

雨と痛む足のせいで、たいして標高がない山を2時間もかかる。
そこから下りを利用し、スピードを出しセブンイレブン。
昼飯を食う。
そこからまた雨の山。
標高のせいにより酸素は薄く、服はびしょ濡れで寒いし、ひたすら痛む足…。

途中で上着5枚、下3枚まで着る。

あまりに豪雨でカッパの意味はない。

白石市に入り、セブンイレブンでお手洗いを済ませようと、トイレの扉を開けると、女性が…。
ムラムラよりも痛みによる辛さと驚きが上回る。

諦め、またまたスタート。

豪雨の中こぐが寒い&痛い…。
あまりの寒さに耐えきれず、
ファッションセンターしまむらへ…。
厚手のセーターを購入。

まず出発日前日にゼミに出て、夜自転車をホームセンターで買い、
10キロ練習。
ジュースを買い込み、すき家で飯を食い、就寝。
朝6時15分に出発。

朝10時までには土浦到着。
しょうへいを呼ぼうとしたが、あまりにも早すぎて寝てると思い、自粛。

上半身裸でこいでたが、土浦駅付近のファミマは自粛。

ファミマのおばちゃんに石岡までの道のりを聞く。
石岡はちょうどお祭りをしてるらしいという情報と共に、
「自転車でボランティア行くの?頑張ってね」
と言われ、勇気と元気を貰う。

出た瞬間に上半身裸再開。

しかし、出た瞬間迷子。

気がつきゃまた同じファミマの前に…

なんとか軌道修正を行う。

しかし、
石岡までが遠い…

ひたすら遠い…

ひたすら国道を突き進む。

途中ファミマで石岡までの道のりを聞く。
「ここからだと30分くらいだよ~」
と聞くが、石岡に着くまでに土浦から3時間かかる。

途中雨が降り出すがこぐ。

笠間の看板を見つけたから石岡辺りで昼飯を食う予定が辞め、
笠間を目指す。

歩道がないし、
栗が落ちてて危ない。

なんとか笠間に突入。
笠間のファミマで飯を食い、

この頃から足が痛くなりだす。

笠間から福島に入るまでの途中に
山を何個も越えるが、限界と時間を考え、
平坦な道を探す為に少し逆戻り…。

気がつきゃまた笠間市…。

笠間と山の往復に3時間くらい使う。

でなんとか平坦な道に出て、陸前太田付近のセブンイレブン。

道を確認したら、陸前太田駅までまた山を越えなくてはいけない…。

足に激痛が走り、坂道を歩くことすら出来ない…。

坂道は歩きながらも陸前太田駅到着。

15分休憩する。
この頃には夜19時。
家を出て12時間経つ。

陸前太田駅を出て街灯がない道を走る。
あまりに辛いから暗闇で休憩してるとおじさんが
「どうした?熱中症か?」
と声をかけてくれる。
優しす…。

で足が痛いから途中途中休憩を挟み、
また山に突入。
車は通るが人は歩いてない。
それでもこいで深夜23時に太子町。

温泉町と言うだけあり、景色が綺麗。
でも無駄道せず、
また山へ。

そろそろ足に限界が来たから、泊まる場所を探す。
でも山にそんなものあるわけがない。

ずっと無人駅ばかりを見てきたから、
無人駅なら野宿出来るんではないかと発想が出る。

しかし、最低でも福島県には入りたかった。
意地もあったし、
計画が狂うから。

結局家を出て19時間後に福島県の矢祭山駅に到着。
綺麗な駅百選に選ばれた駅。
無人駅だし、
椅子の上に屋根があるから、野宿。

しかし、2時間おきに目が覚める。

寝やすい駅だが安眠しか出来ずに朝7時くらいに起床。

8時までボーっとタバコ吸ったり休憩する。
そして8時から携帯の充電をすると同時に、障害者用トイレで、歯磨きをし、Tシャツを洗濯。

自宅まで無駄道を含め140キロくらい移動。

で朝9時前には出発。

もちろん本日も上半身裸です。

暑いから…。

田舎だから山を越えまくるが、
どんだけ水分を補給しても、
冷えピタを貼っても、
足は痛み、進めないし、
高地だから酸素は薄く、頭が痛い。
更に32度の為に、熱中症が襲いかかる。

ぼーっとする。

足は動くが、無意識。

でも辛いから休む。休んでもぼーっとする。

汗で冷えピタは落ち、まっすぐ歩くことすら不可能。
でも山に居るから、なんもない。

休憩をしようにも出来ない。

気持ち悪くなり、
倒れるんじゃないか…と危機感が出てたが、
少しで、下り坂を下るとヤマダ電機を発見。

身体を考え、迷わずピットイン。

冷房があるにも関わらず、全く効かない。
むしろ火照り過ぎて効く気配すらない。
すると俺の頭にマッサージチェアーが浮かぶ。
早速向かいマッサージチェアーに座り、マッサージされながら休憩。
ヤマダ電機のテレビではアッコにおまかせがやってる。
だいたい13時前かな?

でマッサージチェアーのおかげで多少リラックス。

でまた上半身裸になりこぐ。

また山に入る。

なんとか18時くらいに郡山市へ。

次にいつ風呂に入れるかわからないからスーパー銭湯へ。

日焼けで、水を被ると身体にしみる。

で19時前には出る。

そこから福島市を目指す。

テンションを無理にでもあげ、
ひたすらこぐ。

地図では本宮市~二本松市~福島市は近いように見えて遠い…。

二本松市を越えた辺りから山に入る。
誰も歩いてる人すら居ない。

道の駅二本松で15分くらい休憩をし、
山を何回か越える。
歩くのすら辛い為、当然上り坂なんてペンギン歩きくらいじゃないと歩けない。

なんとか最後の山を越えると綺麗な夜景が…。

福島市だった。

街は墨田区みたいに静寂に包まれ、
多少人が居る程度。
久々の都会に出た。
綺麗な街過ぎて好きになる。
10階以上の建物はなく、
道は広い。
綺麗な星空に静寂に包まれ、澄んだ空気。
県庁所在地とは思えないくらいの街に感動。

結局自由空間に深夜1時前に着くが、初の漫喫に寝れずに、深夜3時半まで寝れない。
初の漫喫だけが理由ではない。

どこからか聞こえる怒号のようないびき。
しょっちゅうくる地震のせいかもしれない。

結局、
20時間起きて、移動距離は真っ直ぐ歩けないくらい痛む足や熱中症になったり、山を何個も越えたせいで
約120キロしか進めなかった。


これが福島市までの道のりです。

次は、石巻までの道のりを書きたいと思います。

長文にお付き合い頂きありがとうございました。
さて今日も書きますか。

俺は福島県国見町のハシドラッグの優木まおみ似の女性に惚れました。

んなことは置いといて、

俺は昔石巻育ちの子と付き合ってたのよ。

その子の出身中学も小学校も避難所になってるんだけどさ。

行く前から
その子やその子の友達から宮城の現状を聞いたりもしてた。
石巻の人柄も聞いてた。


でいざ出発日。
台風は沖縄方面に向かってたから、俺らは家を出た。

2日後メールが来た。
台風がそっちに向かってるから的な内容と現状報告と安否の確認。

その他にも被災地の大船渡市出身の方からも
「国分町の風俗嬢は可愛いからいった方が良い」
とか変なアドバイスも貰ってた。


でいざ出発して様々な人と絡んだ。


チャリで行ったからこそ見れたものも、触れたものも多くある。

元々石巻育ちの元カノからも
「危険だし新幹線じゃダメなの?」

と言われた。

「バスや新幹線、車じゃその地域の生活や人柄、細かい部分が見れないだろ」

と言い、突っぱねた。

職場の毎週末ボランティアに行ってる方からも
「チャリかよ。向こうまだガラスの破片とか落ちてて危ねえーぞ」

と言われてた。

でも、チャリを選んだ。

就活の為でもあれば、俺自身の成長や、上記のように、その地域の生活や人柄、細かい部分が見たかった。

当然チャリで行ったから、
地域の中でも、
どこの道がまだ手が行き届いてない。
人柄から訛り。
生活の仕方。
各被災地の状態。

とか様々な物も見た。

チャリだから、ご老人からも絡まれるし、
チャリだから、コンビニ店員にも絡んだ。

まだ繁華街の方は言葉がわかるが、
農家のおじいちゃんとかは言葉が通じない。

でも絡んだ。

石巻で今回の台風を体験した。
膝まで浸かりながらチャリをこぎ、
おばあちゃんから話しかけられ
どこが冠水してて危ない?
どこが酷い?
とかも聞かれた。
チャリでこいでたから当然わかる。

山道でチャリで前から転んだりもした。

コンビニ店員も被災地ごとで働き方が違う。

特に女川町のセブンイレブンの女の子は頑張ってた。
女川町のファミマの女の子は同じ名前だった。

台風でビチャビチャになった為に寄って乾燥機をあてながら爆睡したコインランドリーでは少年が
「来年の春には8番ライトで先発出場するんだ」
と言ってた。

農家の方も
軽トラを止め、絡んで来た。
訛りが凄くて半分くらいしか理解出来なかったが、
感謝と驚き、応援、ボランティア情報なども聞いた。

警察官は24時間台風の中、交通整理をしてる。
交通整理をしながらも、笑顔で挨拶をしてくれる。

ラジオでは
「◯◯町の仮説市役所では、現在地震の影響により、職を無くした方などの採用を行ってます」
の声。

スーパーは潰れた為に、市役所の一部をスーパーにし、
休憩所では車椅子のおばあちゃんやおじいちゃんが談笑。
逆に、休憩席にただ漠然と座り、何もかもを無くしたかのような暗い表情で佇むおじいちゃんやおばあちゃん。


様々な人間模様を確認した。

明るい人。
暗い人。
夢に向かって頑張ってる人。
復興にむけて頑張る人。

全ての人間に十人十色の生き方や暮らし方を垣間見た。

俺らは、
台風の中、
ビショビショになり、バックにまで水が溜まり、
深夜に街灯も無い山いくつも越え、
橋が流されて渡れなく遠回りをし、
休憩する場所も無く、風邪をひきかけ、
肩、
太もも、
足の付け根、
全てを痛め、
台風の山道で転び、
それでも見た。


俺らはチャリでそんなことまでしてまで、
様々な人間模様を見た。

俺は感じた。

向こうの人は、暮らすのにも苦労をし、仮設住宅もなく、避難所暮らし。

それでも
農作業やアルバイト。

辛い中も頑張ってる。

それでも口にする。

「ボランティアの方々には感謝してる」

と…。

「ボランティアの皆さんには感謝してるけど、女川なんてまだ1000人以上行方不明で、仮設住宅だってたいして作ってないのに、早々に切り上げた自衛隊や政府には呆れてる」

こういう言い方をした方もいる。

でも被災地外の方はどうか…

被災地以外の人それぞれの暮らしがある。

節電をする人。
被災地にお金を使う人。
被災地に折り鶴や手紙を贈ってる人。

確実にその手紙や折り鶴は被災地には届いてる。
スーパーにも飾られてる。

東京都の八王子の小学校。
大分の中学校。
個人からの手紙。

それが、行方不明の捜索願の目と鼻の先に飾られてる。

ご老人はその飾られてる手紙を読んでる。

そういう姿を見て、様々な人間模様や場所を見て、
俺はまだまだたるんでるんではないかと確認した。

就活や、テレビ局で夜間で働き、そのまま学校。
寝る時間は少ない。

でもたるんでる。

まだまだ頑張らなくてはいけない。
そしてまだまだ頑張れる。

逆に俺は被災地や
被災者から
力を貰った。

そして、昨日石巻出身の女の子と会話をし、
現状や俺ら大学生のボランティアにはなんの力はない。
でも心のケアは出来るのではないか…。という会話になった。
やはり石巻育ちも、現石巻在住の女の子も口を揃えて言う。
「今は被災者にはボランティアとかより、心のケアを求めてるよ」
と言う。
そこから、
俺は東北放送や仙台放送を就活で受け、移住し、向こうの力になりたいし、力を貰った御礼がしたい。
と伝えた。


当然、向こうで骨を埋める覚悟も出来た。

就活で東北放送や仙台放送が落ちても、向こうに将来何歳になるかはわからないが住む。老後かもしれないが住む。
とにかく力になりたい。


でも、あと少しで就活が始まるし、
職場にも戻るし、学校も始まる。
就活後また一年以内に、俺は被災地に行く。


そう感じさせてくれる旅だった。

次からは初日からの流れを詳細で書きたいと思います。


以上。
本日帰宅しました。

元々、東北放送や仙台放送を就活で受けて、震災の復興をしたいと言う気持ちは持ってた。

でも、今行かなくてはいけないと思い行ってきた。

足は角度にして45も曲がりません。
股の付け根や、太もも。肩全てが痛いです。
咳をするだけでも痛く、
階段の上り下りは手すりを使い、ゆっくりじゃなくては出来ない状況です。

風呂も2回しか入れませんでした。

服は台風の影響でビショビショになり、それを着たままの生活をし、
寝場所は、
福島市と仙台の漫画喫茶以外は、台風の中、駅や公園で野宿。

パンクも2回し、それでも深夜、街灯すらもなく、4時間ですれちがったのは山岳救助隊の車1台のような山道を走った。

本来は南三陸や石巻、気仙沼を目指してた。
しかし、台風と地震の影響により、山崩れが起き、通行止めだったり、
電車が止まったり、
橋が落ちてしまい渡れない。
そんな状況の為、急遽、
石巻、女川、雄勝町に行った。

石巻は震災の爪跡はあるが片付けられてた。
しかし、老人の顔は寂しく、全てを失ったかのような表情。
久々孫と会えて抱きしめる家族。
仮設住宅も少なく、今だに避難所くらしの方々。
工事をしてたり、信号がない為、夜通し道に立つ多くの大雨の中、頑張り挨拶をしてくれる警察官。
大雨で冠水し、膝まで押し寄せる雨。
更に、石巻駅前のエスタと言うスーパーには捜索願が今でも貼られてる。

女川は片付けも少なく、街にガラスの破片やゴミ。
女川港まで行くと山の上にまで落ちてる牡蠣の貝殻。
漂う死臭や物の腐った腐敗した匂い。
街まで流されてきてるボロボロの小型船。
家に突っ込んでる車。
人は1人も居なく、街灯すらない暗闇。

雄勝町は、暗く、街灯もないし、人が居ない。
中学や小学校はコンクリート部分以外はなくなり、
瓦礫だらけ。
道に転がるバックやリコーダー。
更に家族の思い出が詰まった写真アルバム。
ランドセルやパソコン、上履き、おおくの物が転がってた。
津波でビルの上に乗っかったバス。


この3街に限らず、矢本や松島、どこも腐敗した匂いを感じた。

無人だし雄勝町の小学校に侵入した。
各扉に、
「4月12日、14時◯◯分、死者◯人、要救助者◯人、◯◯警察」
の文字。
教室にくしゃくしゃで落ちてる子供達のリレーなどの賞状。
泥だらけの椅子にしくクッション。
ボロボロのリコーダー。
泥だらけのドラえもんの人形。
片方だけの上履き。
サッカーボール。
小学生が毎日使ったり、遊んでたものが数多く落ちてる。


でも被災者の方々で、行く当てのない方は居る。そしてまた立ち上がろうとしてる。

数々の街にある
「がんばれ‼東北」
「がんばっぺ宮城」
「負けてたまるか」
の看板。

そして、
「自衛隊やボランティアの皆様ありがとうございます。私達も頑張ります。
負げでたまるか。一歩ずつ進むべし」桜の会

「自衛隊やボランティアの皆様ありがとうございます。雄勝、絶対負けない。必ず勝つ」雄勝小学校・雄勝中学校

の旗。
瓦礫の中にある旗。街灯もないし人もいない中にポツリとある旗。

石巻駅前のエスタの捜索願には
15歳の中学卒業前に控え女川高校に進学予定だった少年
29歳の女性
82歳の下半身が不自由なおばあちゃん
78歳祖母と2歳のあかちゃん

全ての方に写真がついてる。
15歳の少年は家族に不意打ちに取られた写真。
29歳の女性は恋人と共に写ってニッコリしてる写真。
82歳の下半身が不自由で車椅子のおばあちゃんは友人とおいしそうに食事をする写真。
78歳祖母と2歳のあかちゃんが旅先で笑顔で写ってる写真。

今でも数千と言う行方不明者の1人。
どう波にのまれたのかもわからない…。

15歳の少年なら部活帰りに飲み込まれたのかもしれない…
82歳の下半身が不自由で車椅子のおばあちゃんはただ何も出来ずに飲み込まれたのかもしれない…
78歳祖母が2歳のあかちゃんをかばうなり、助けようとして波に飲み込まれたのかもしれない…

でもその可能性が高いくらいの津波の被害を目の当たりにした。

そんな状態の街で笑顔で挨拶をしてくれる方々。
話しかけてきて
自転車で来たことを伝えると
「そこまでしなくてもいいのに…ありがとうね。君たちのおかげで早く復興出来そうだ」
違う人は
「ボランティアが家の片付けとかしてくれて助かるんだよ」
自転車でこいでると
「頑張れ~」と言ってくれるおばあちゃんも居た。

様々な方から暖かく接してもらえた。

俺らより辛い体験をしながらも言ってくれる街。

最終日街の見学をかってでてくれたりした方もいた。


道中、何度も泣いた。
自分の無力さ、人の生死があった場所、
そして数多くの方が亡くなり、それを必死に待つ家族。
何度も気がつきゃ涙をこぼしてた。

看板。
捜索願。
避難所。
暗い顔をしたご老人。
家族と久々の再会をした家族。

今思い出しただけでも涙が出る。

今だに、人が暮らしてる時の物や痕がある。

それでも頑張ってる。

必死に頑張ってる。

町を100%元に戻すのは不可能かもしれない。
でも、立ち上がろうとしてる。


所詮、俺らは大学生かもしれない。
1人の力なんて無力かもしれない。

でも向こうの人達は、来てくれたことへの感謝をしてくれてる。
きっと行動への感謝と言うよりも、その心にかもしれない。

数日間、被災者と同じく、
食べ物もなく、
宿もなく、
車もない生活をした。

被災者の方々は俺らより当然辛い。
それでも、そんな俺らの心を感謝してくれてる。

俺ら大学生やボランティアは心を助けることは出来るが、形として何かすることは、今は被災者の方々には実際、出来ないし、役には立たない。
でも将来何かを出来るのではないか。
俺らはこの震災を忘れてはいけない。

それを被災者の方々は望んでるのかもしれない…。

俺は、震災も捜索願を出された方の顔も街も忘れないし、忘れたくない。



頑張れ東北
立ち上がれ東北

それを願い、それを信じてる。

以上。

タイトルの通りです。

私は

実は

18~19歳の時に結婚しかけた過去があります。

一緒に住んでたし
婚約っちゃ婚約です。


唯一してなかったのは
結婚指輪
結婚式
役所に婚姻届を出してないくらいでした。

そぅです。

横山美雪にそっくりなあの方とね。


まぁ最終的な結論で言えば、
結婚せず、
違う子と付き合ったんですがね…

結果で言えば
正解だったのかな?
そう信じたいね。

きっと結婚してたら
今、子供が居たし、
学生時代から誘いを受けてたヤクザに入るか、
水商売をして金を稼いで、
彼女は彼女でキャバクラなり水商売をして、
家計を立ててたでしょう。


きっと夢を叶える気もなきゃ
ただ単に毎日
なにかモヤモヤを抱え、先行きの見えない結婚生活をしてたでしょう。

そんな姿を浮かべる時がある。
己がいかに凡愚かを考える。

別に彼女が悪かったとかじゃなくてね。

彼女には非はないでしょう。

ただ単に己が凡愚以下で浅はかだったんでしょう。

で今、
私は大学に通いながら、
テレビ局で働いてる。

結婚してたら
到底見えない世界だった。

大学行ったからって先行きが見えるわけでもないし、
夢が叶うかもわからないのが実情。

ただ、頑張っているとは思う。

大学に通ったのが正解だとも思わない。
テレビ業界のバラエティーで成功してる構成作家や放送作家で高卒多いしね。

友達でホストやってて高卒のやつ、大学中退した奴を、歌舞伎町にいる時たまに呼び出す。
そして帰り際に相手にたいして問う。

「将来どうすんの?」と…

皆が必ず言うのは

「わからない…別に今楽しいし…」

って…。

今が楽しいってのを聞くたびに昔の俺と重ねて見てる部分がある。

だから言う

「いやいやずっと続かないんだし、将来考えた方が良いよ…」

と…。


俺もきっと昔なら言われてただろう。

今の世の中、誘惑が多い。



地位
名誉

とかさ…。

だから仕方ないっちゃ仕方ないんだろうけど、
自分で言うのは変だし、
言う権利があるとは思わないけど、

「楽しいが将来に繋がるか…」
「楽しいからって将来役に立つか…」

を感じてる。

正直、俺は大学が楽しいとは思わない。

なぜなら、とっとと大学卒業して真面目な仕事っていう仕事をしたいからね。

所詮大学なんて人生の中でのほんの短な過程でしかないからね。

ゴールが見えるかはわからない。
でも真面目な仕事について
そこから本当の人生が始まると思う。

そして
結婚についても仕事についても
片手間にしたくはないし、
今の若い女の子が結婚に対して意識が低いのもわかるし、
俺自身更に成長してからからでも良いかなって…。
結婚にたいしても焦らなくなった。

だから
俺の過去は周りから批判されても仕方ないし、
無駄な経験だったっていっちゃ無駄な経験だったでしょう。

ただ
婚約にせよ
高校中退にせよ
いろいろ考えさせられるし、
人とは違う経験はした。

無駄な経験や過去について考えたから
今の私は形成されているんでしょう。

まぁそれが役に立つかなんてわからないけどね。

人間って挫折を味わった人間は強くなるとは言うけど、
確かに強くはなったのかな?

って過去の自分を思い返した。

過去に縛られるのは
好きじゃないけど、
過去を思い出し、
自分を奮い立たせるのには良い起爆剤にはなる。


たまには過去を思い返すのは良い勉強になるなって感じた。

ただそんだけ

バイプー