『静かなること』
人間テープレコーダー・村越茂助のエピソード。有名な話。
清州を中心に結集している東軍の諸将……福島正則、池田輝政、黒田長政、細川忠興、中村一栄、浅野幸長、堀尾忠氏、京極高知、加藤嘉明、田中吉政、筒井定次、藤堂高虎、山内一豊、金森長近、一柳直盛、徳永寿昌、九鬼守隆、有馬則頼、同豊氏、水野勝成、生駒一正、寺沢広高、西尾光教など、他に徳川家の本多忠勝、井伊直政。
7月の何日からだったか、ガラケーからアメブロが出来なくなるので、練習も兼ねてパソコンから入力してるんだけど、辞書がバカで、すっごく入力しづらい。文系に関するPCの要領の悪さっつーのか、それが如実に出る。
『戦端開かる』
08月10日 石田三成、佐和山城から兵6700を率いて大垣城に進出。家康が西上してきたらどうしよう、みたいなビビリムード。
大坂城の毛利輝元、動く気配なし。実は毛利は内部で意見が対立していてまるでダメ。
08月19日 村越茂助の伝令を東軍諸将、聞く。
08月20日 東軍進撃決定、福島正則と池田輝政、先陣争い。岐阜城を直接たたくことに。登り口は2つ。木曾川上流と下流に分かれて攻める。
下流…福島正則、細川忠興、加藤嘉明、田中吉政、藤堂高虎、中村一栄、蜂須賀豊雄、京極高知、生駒一正、井伊・本多の手勢を加えた1万6千人。上流……池田輝政、浅野幸長、山内一豊、有馬豊氏、一柳直盛、戸川達安など1万8千人。
対する岐阜城……織田秀信の手勢6千500、6里離れた犬山城に石川貞清、稲葉貞通、関一政、加藤貞泰、竹中重門など1千700、4里離れた竹ヶ鼻城に杉浦盛兼に毛利掃部、総勢合わせて9千になるかならぬか。
08月21日 東軍、木曽川左岸に進軍。田中吉政と中村一栄は羽黒付近に出て犬山城の石川貞清に備え。
正午頃 織田秀信から三成へ「東軍が木曽川を渡って岐阜城へ攻めかかるので援軍頼む」と注進。秀信は織田信長の嫡孫だが不肖な三代目だったので、籠城を主張した家臣・木造具正の主張を退け、兵力の半数を新加納と米野の間に配置。
08月22日 木曽川上流で織田勢発砲。約束の狼煙を待てず上流の池田勢、進行。正午前、河田を渡られ織田勢、撤退しだす。下流の福島正則以下、日暮れまでに竹ヶ鼻城を抜き笠松西北の太郎堤で夜営、上流組がとっくに川を渡り岐阜に近づいていることを知る。
「ーー上流の諸将が、われ等を欺して先に岐阜城へ攻めかかる所存ならば、われ等は更に一歩をすすめて、ここから直ちに大垣城へ馳せ向かっては如何であろう」
戦場での諸将の功を競う猛々しさは、まさにかくのごとき……
と書いてあって、おかしくて笑ってしまった。
そんな状態で攻め入ったもんだから、かつて信長が天下布武とか言って築城した名城・岐阜城もあっという間に……23日に落ちてしまい、織田秀信も捕まった。祖父の信長に生き写しってぐらい似ていたので、東軍の皆もしんみりしてしまい殺されずに助かった、みたいな感じ。
『見えぬ采配』
東軍は先を争って進撃、じりじり押される石田勢。24日には赤坂に東軍結集、対峙する三成は大垣に軍を集めなくては勝ち目がなくなってしまった。西軍の体勢が整い、両軍の勝敗が決するのは9月中旬と視られた。家康、すべて読めていたのか、9月1日になってようやく江戸を出発。徳川勢、3万2700余の人数。中山道からの秀忠を待たず速戦で仕掛けることに。もししくじっても秀忠が後から来るし。戦後の処理に余力を割かねばならぬと考える家康。
14日、前線の岡山の陣に家康到着。
『松尾山の眼』
松尾山の小早川秀秋。8月28日に徳川に味方する浅野・黒田からの手紙を読んで、家康側に付くことに決めたらしい。その時にはすでに西軍の中にいたので、本心を言ったら袋叩きにされるってんで黙っている。9月14日夜、大谷刑部が秀秋は大丈夫かと、話に来る有名なシーン。
秀秋、酔っぱらっていて刑部に会うつもりなし。二人の家来が相手をする。
三成勢の味方をするわけじゃないけど、小早川秀秋みたいな態度の奴はホント嫌いだ。なんなの、こいつ。
『石田草』
石田草……このタイトルが目に入ったとき、思わず変な笑いが出てしまった。……石田草。ダメだ、おっかしい。
島津豊久が三成のとこに来て、夜襲を勧める有名なエピソード。
その後、三成、周囲の状況から自らの人生における過ちに気付きだす。これまでの他人との接し方・考え方を猛省し未熟を悟る。しかし既に時は遅く……ここんとこは可哀そうで、読んでてちょっと泣きそうになった。この章はこれからも度々読み返そうと思う。
『東軍進発』
三成、石垣城を出て佐和山へ。家康を中央におびき出して退路を断つつもり。毛利が動くことはないと読んでいる家康、桃配山に移り布陣。関ケ原の東端へ本陣を進める命令。
『火蓋切らる』
午前8時、霧が晴れ家康、進攻開始。井伊直政と家康の四男で秀忠の弟・松平忠吉が抜け駆け。南宮山の毛利動かず、松尾山の小早川の叛心も既に疑うべくもないと島津義弘もまた動かず。東軍と西軍、さらに毛利と小早川のような都合の良い方につく中立の、三つ巴の戦とみるべき。三成を憎む黒田、北の端から大きく右手に迂回、三成勢の島左近の本体に射撃、突っ込んでいく。
『戦の皮肉』
島左近が撃たれたと聞いた三成、ショックを受ける。
その頃、松尾山では……様子見の小早川秀秋、黒田家と家康の使者それぞれに脅されて震えたり脂汗を垂らしたり。
南宮山の毛利は……若い秀元をそそのかせば楽勝と踏んでいた安国寺恵瓊だったが、秀元は吉川にすべて任せてある、と取り合わない。そこへ池田輝政と浅野幸長の軍が発砲してくる。あてが外れて焦る安国寺恵瓊、慌てて長束を走らせたが結局、徳川派の吉川が(既に前の晩、東軍に和議を申し込んでいた)うんと言うわけもない。長束の家臣・小西が秀元をせっつくも、「これからランチ・タイムだから」と苦し紛れのハチャメチャな答え。有名な「宰相のカラ弁当」。少し経ってから恵瓊のもとに秀元の使者が来て「なぜ我々が動かないのか私にはわからんが、何か理由があるのだろう、そっちは好きにやってくれ」と言ってきた。すげーぶっ飛んだ絶縁状。
島津義弘は戦場の中、まったく動かない。
『勝敗の鍵』
正午になり、予想外に長引く戦に家康、いらいら爪を噛む。動く気配のない「山の上の伜」こと、小早川秀秋に向けて発砲。ビビった秀秋、やっと西軍を裏切って山を下り、大谷吉継の軍に突っ込んでいく。周囲の軍勢も次々東軍に寝返っていき、観念した大谷吉継、三成が自分の後の茶碗で茶を飲んでくれたことを思い返したり、信義を貫いてきたはずなのにどうしてこうなったのかと不運を嘆きつつ、切腹。かわいそう。
『老虎若豹』
大谷吉継の首は本人の遺言通り、家臣により隠され、どこに埋められたかわからない。その頃には勝敗が明らかになり、島津義弘、家康の本体を掠めるような形で遁走、慌てる徳川。松平忠吉、義弘の首を取ろうと追いかけるが腕に槍を受けて負傷、敵と泥の中でくんづほぐれつ。井伊直政はあと一歩で追いつきそうだったが足を撃たれて落馬した。
西軍完敗。
毛利勢はなぜか山の上で鬨の声をあげた。
三成の本隊はどこへ行ったのか行方不明。
安国寺恵瓊は逃げてから一度、秀元のもとへ戻ってきたが、また逃げた。
『勝者の陣』
慶長五年九月十五日、関ケ原の戦が終了、家康の陣中の様子。
忠吉と小栗大六のエピソード、いい感じで決着するんだけど、これはホントかなーと。何でもいい方に持ってきすぎじゃないか? 実際はやっぱり見殺しにしただけなんじゃないかなと思う。
『敗者の点睛』
今度は三成の方。三成、家臣とともに伊吹山中を逃避行。家臣と離れて一人で大坂を目指す。途中で生米を食べたので激しい下痢に見舞われながら18日に幼少時の手習いの師匠のいる法華寺に逃げ込む。そこで佐和山城にいた一族が皆、自害したことを知る。寺では見つかるので百姓に案内させて岩屋に隠れることにする。百姓たちは、かつて公正な裁きを施された、というので三成のことを非常に尊敬していた。そんな話をしているうちに三成が涙をこぼすあたりで感動。泣ける。百姓の家族に迷惑をかけないために自分から役人のもとへ行くことに。
『虜囚の駕籠』
9月21日、三成が捕まり、25日に大津の家康本陣へ移送された。
本陣前の野外に十二畳の新しい畳が敷かれ、そこにおかれていた間、通り過ぎる者がそれぞれ声をかける。福島正則がからかうと「お前を生け捕ってこうしてやるつもりだった」と言い、小早川秀秋相手には言い負かす。黒田長政は怒りにスジを立てながらも「無念だろう」と三成に自分の陣羽織を掛けて縄目を隠してやる、っていう有名な場面。やがて家康が面会。三成は伏見城で殺した鳥居元忠の息子の鳥居成次に下げ渡されることに。成次に仇として成敗されるかと観念していたら、風呂に入れてくれたり好物の韮雑炊を出してくれたり、新しい着物まであてがわれる。自刃した石田家遺族のことまで気を遣われ、三成感服。このような家来を持つ家康が羨ましかった、とあるあたり、やはり周囲の人の質が違ったのか。いや、それまでもそうした人々は間違いなく周りにいたはずで、それを三成自身で見ないか、見られるような状況に自分を置いてこなかったのでは。
『新しき地図』
戦後処理。最初の方に三成と、その戦の総括みたいなことが豊家の背景も加えて書かれていて、これはまったくその通りだと思う。家康は今度の戦は秀頼にはかかわりないこととして、何の処断もなし。これは……どうかな。今回は仕方がないか。毛利輝元のことは「うつけ」と呼んだが、これは至極もっともなことで作中にも書かれてるけど、安国寺恵瓊みたいな坊主に騙されたとかそんな言い訳で大大名が戦を起こすなんてキチガイに刃物だ。毛利はここで潰しておけば……と思う。幕末から現在までずっと禄でもないし、こいつら。
『女の意地』
高台院の許の「お袖」、三成の処刑を見ておくことに。この作中、三成の開戦の背中を押したのは、間違いなくこの珍妙なエスパー女、「お袖」であると思う。
途中、本阿弥光悦と会い、一緒に行くことに。
私も三成の見方は光悦と同意見で、おそらく秀吉が家康への何気ない愚痴をこぼすのをずーっと聞いてる内に、徳川家は敵、みたいに認識されていったんじゃないかと。
『淀君日記』
淀君、大野修理亮治長、修理の母・大蔵の局、秀頼、片桐且元の様子。
家康のことやら黄金のことやら。
『預かる者』
家康、片桐且元と話し。秀頼のこと、淀君のこと。且元、(家康とはいったい悪魔なのか仏なのか……?)と驚嘆する場面があるが、多分、家康はすべてわかってて言ったりやったりしてると思う。ほんとに思考がきめ細かい。
『政略婚略』
二の丸での秀忠と忠吉の会話。なぜ千姫を秀頼の嫁にやらなきゃならないのか、そこまで豊家にへりくだる必要はあるのか、と忠吉。本多佐渡は関ケ原から秀忠お付きになったらしい。
59歳の家康に6番目の男子誕生。
秀忠が眠りにつく様子で終わるんだが、秀忠ってのはこれまでの描写でも「只者じゃない感」がすごかったけど、言うなれば「律儀の病気」みたいな、異常者というか病気に近い意味での「只者じゃない感」。でも、これくらいじゃないと家康の引継ぎはとてもできないだろうという安心感はある。