尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)X丹羽家~西光庵(さいこうあん) | ⋆


「二本松の提灯祭り2015」も完結していないし、
戊辰戦争「二本松藩」もしかりですが、upしなきゃ!とかきたてられ、書く。

先の新宿区戸山公園のブログ、こちらがモトです。

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徳川慶勝(よしかつ)は、写真家大名だったカメラ

写真家大名・徳川慶勝の幕末維新―尾張藩主の知られざる決断/日本放送出版協会

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日本人で、初のパノラマ写真を撮ったと言われています。
◆名古屋城


◆鶴ヶ城(会津若松城)の「大砲痕」の写真を撮った人物でもあります。


戊辰戦争では、弟の会津藩主・松平容保の敵です。

慶勝さんは、これを撮ったけど、人前で自慢するわけではなく、
たまに物憂げに眺めていたと言われています。

時代背景に想いを馳せれば、すごくせちがらいけど、
それがあっての「現代の日本」と思え、敵味方何もない気がします。



青松葉事件は、藩内でいえば残酷かもしれないけど、
日本という大局的な見地では、この判断があったから、
日本が分裂せずに明治維新を迎えられた、という見方があります。

会津・容保さんの美談は多いけど、
慶勝さんは何で表に出てこないのだろう、と実はファンも多いみたいです。
隠れた…いや、「隠された」モノはパワーがあるから:*:・( ̄∀ ̄)・:*:

わたし、まだまだホント歴史知らんのでおこがましいですが、
慶勝さんを知りたいし、知っていただきたいと思いました。

慶勝さんを語るにしては、あまりに勉強不足なので、
今は、このくらいにしませう。





◆浄土宗・西光庵(さいこうあん)尾張・徳川家の墓

東京都新宿区新宿6丁目。
ワタクシゴトですが、最初に住んだ町が新宿7丁目。

その氏神様「西向天神」のほど近くに、この徳川慶勝の墓所「西光庵」がある。
その後、わたしは四谷で育つのですが、慶勝は逆に四谷で生まれたらしい。
勝手にご縁を感じ、うれし(〃∇〃)



http://blogs.yahoo.co.jp/rsjjr083/29793324.html より

この地図は、文化四年(1809)鍬形紹真(くわがたつぐざね)作。
赤↑の「西光寺」が現在の「西光庵」です。

西光庵の「観無量寿経曼荼羅」は、鎌倉時代の製作で、
阿弥陀如来の浄土を描いた区内最古の絵画。(非公開)








初めて伺ったのは、
お盆の二本松藩主丹羽様の墓参りのあと。

最初来たとき、ネットで知って、場所メモして行かねば!と実行しただけで、
なんでワタシ徳川家の墓に来たんだっけ? と失態で失礼ながら失念。

まー、来たから満足と、現地でスマホ検索もせずいたのです(爆)。
二本松藩の丹羽家つながりで、たどり着いたのも忘れていました。

けれど、ここでもアゲハ蝶が現れて、逃げないでいるのです。
ずっと蝶がいたのは、二本松に続き数回あって、お告げのような気分になり、勉強X発信せねばって。

あと、お墓撮ってもいいのかなぁ…の撮ってもいいばい、という合図みたいに感じるのですね( ̄▽+ ̄*)
激写しまくりのなかの一コマ↓



で、初めての墓参りのあと、本を読んで大好きになりました。
回答⇨丹羽長富の三女が、慶勝さんに嫁いだからだと思い出す。

その後、2回目は先週やっと。
慶勝さんのとこに踏み入れたら、銀杏をはさんで2羽(やはり丹羽家だから?)の鳩が飛んできた。





慶勝の隣に「貞徳院殿恭蓮社寛誉和厚大禅定尼」の墓。
妻の矩子(のりこ)。丹羽長富の三女・矩姫(かねひめ)。



見づらいですが、蓮の綺麗な彫刻↑

さらに、隣に「故従三位徳川義宜(よしのり)之墓」と刻んだ墓。
慶勝の三男で、尾張藩16代藩主・徳川義宜(よしのり)。

15代藩主・徳川茂徳(もちなが・慶勝の兄弟)が隠居したため6歳で家督を継承。
幼かったので、父の慶勝が実権を握っていたといいます。
もともと病弱だったためか、18歳で逝去。



やっぱり「知って」からくると「見えてきます」。
この花台、丹羽家の家紋「X」?

こういうのって、バツみたいな印はよく付けられるし、
家紋にしては端にくっついているし違うのかなとも思うけど、
慶勝のは、葵のご紋だけだから、な。

母方の丹羽家の家紋を入れた、と思いたい。




墓石越しに、新宿の高層ビルが見えます。
↓一般の墓地だとこんなにひらけた素晴らしい眺め。





うつくしいモノも場所も、たくさん知っていきたい。
そして、知っていただきたいです。

お読みくださり、ありがとうございます。