今年になってご覧いただいている方はご存じないと思いますが、ブログをほとんど書かない時期が4~5年ありました。

2008年1月にブログを開始して、コンスタントに投稿していましたが、近年はそんな感じでした。

もうブログをやめようかと思って、アメンバーになってくださっていた方を何も告げずに一覧から削除しました。不快になられた方もきっといたと思います。

 

書かなくなった一番の理由は、こんな自分にモノを語る資格はないと考えたからです。

「お前が言うな!」みたいな自己矛盾を感じたので、最後に自分の超個人的なトラウマなど、いい大人が言うようなことじゃないネガティブな内容を書いて、それで終わるつもりでした。

そんな折、勧めもあって、厚顔無恥にも再び書き始めました。その時点では、「厚顔無恥」という感覚でした。

しかし、昔のように意図的にポジティブな記事ばかり書くのは、個人的なブログにあって、なんか不自然と感じるようになりました。

 

ただ、意図的にポジティブなスタンスでいた昔は常連さんや色んな方からよくコメントをいただきました。実際に何度かお会いした方もいます。

コメントが多かったのは、新聞(読売・産経・毎日・朝日の4大紙と47都道府県の地方紙)の記事や海外通信社の報道を引用した社会問題の考察や、かなりマニアックな、地方のローカルな話題も含む障害者福祉主に発達障害)の情報をよく書いていたこともあるでしょう。

そういうブログでしたが、最近は昔以上に超個人的なことを書くことが多い。

 

今は他人の評価は気にせず、ネットに残る「遺書」のつもりで書いています。遺書は評価するもんじゃないし、そういうスタンスです。それが結果として、誰かの参考になれば嬉しいです。

以前はネガティブなことを書くと、「言霊」で良くないと思っていましたが、何か本心をごまかしているような気がして、今はどの自分も書いていいと思っています。

 

自己弁護で言うんじゃなく、人生に関する怒りと悲しみ、それに起因する不平不満も含めて、ハッキリと言葉にすることは通過儀礼のような気がします。

他人のそういうものを冷ややかに見る人もいますが、それはその人の成長の過程であって、精神性が成熟した人もいれば、私のように未熟な人間もいる訳です。

 

例えば、正しいと思える考えを発信しているスピリチュアルやメンタルの領域の人の話を聞いて、頭では理解しても、そのメッセージにならって行動するまでには時間がかかります。

「頭で理解する→行動する」と思っていて、即行動できない自分をダメだなと思いました。

ですが、そこには工程がひとつ抜けていることに気づきました。

「頭で理解する→心が納得する→行動する」なんです。

頭で分かっていても、心がそれを納得するまで行動には至りません。たとえ心を無視して行動しても、落とし込めていないと一時的なもので終わる。これまでそういうことを経験しました。

頭で理解して、心が納得するまでの過程は、私のようにハードルが高い人もいるのではないでしょうか?

 

私がブログを書くモチベーションは、その過程の通過にもあります。

面白いことや軽いことを書くだけだったら、ブログで発信しません。それならTwitterでリアルタイムで発信するでしょう。

短いセンテンスで言葉を簡単に消費したくないから、事前に文章を書いて、推敲して、予約投稿するという形をとっています。

 

ですので、誰かの参考になることを書いたとしても、まずは己の為です。己の為だから他人の評価は関係ないんです。そう考えるから、ブログの中で自由になれるんです。

特定個人を傷つけたり公序良俗に反しない限り、自分のブログで何を書こうと自由で、語る資格があるかないかは横に置いてもいいんじゃないかと、今は思っています。

 

自分は仏教(密教や禅宗)の修行をしたことがなく、ましてや霊能力はありませんが、スピリチャル的な話、ものの道理の話もしようかなとも思っています。

甚だ未熟者ですが、世の中、下には下がいるというか(下というのは正確じゃないですが)、スピリチュアルのブログで論理が破たんしていて意味不明って人をアメブロで時々見掛けます。

支離滅裂で考え方が見えないので、肯定するか否定するか以前の話で、判定不能です。難しくて理解できないというのとは違います。理解できない難解な話でも、ちゃんとした考えなら論理構造がしっかりしていて判別できます。

 

一般的には、個人的に考え方が間違っていると思うこと(自分と価値観が異なること)を言ってもその人の自由だから、その人のブログで言うのは構わないですが、ことスピリチャルに関しては、心を惑わす罪だと思います。

私のような「素人」も見るのに、宇宙とか次元上昇とかスケールの大きな言葉で現実離れしたことを言って、よく分からない安心感を与えるのは、ヤク中にするようなもので、その世界から抜け出せなくなって、現実志向では生きられない屍を大量に作ることになります。

苦しみを感じなくていいけど喜びも感じられない(苦しみも喜びも幻想とする)ような精神世界に傾倒したら、もはや生きているとは言えない。物理的肉体を持つ意味がない。

この下世話な世界を味わうことが、生きていると実感することなんじゃないかと、素人ながらにそう考えます。

 

記事に高低差があって、ジャンルも様々ですが、もう少し続けようかと思います。

高低差もジャンルの多様性も、全部ひっくるめてバランスだと、良い風に解釈しています。

そういう訳で、もうしばらくお付き合いよろしくお願い致します。そう長くないと思います。

 

 

今話題の地元の前方後円墳

(濠を含めた全長840m、全幅654m)

呼び名がコロコロ変わりますが、私が子供の頃は仁徳天皇陵と習いました。

全長200m以上の巨大古墳は、南大阪と奈良に集中しています。

24~26年前、この敷地のフェンス(宮内庁の立ち入り禁止の看板がある)と、建物の裏側とが5メートルぐらいしか空いてないラブホテルに何度か行ったことがあります。ホテルの窓からその看板がハッキリ見えるぐらいの距離でした。一緒にいた子はいずれも10代でした。こんなつまらない人生でも、刹那的に花が咲いて蝶と戯れる時もありました。ネットで調べたら、今はホテル名が変わったか、無くなったみたいです。

急に下ネタすみません。これまでの真剣な話が壮大なネタフリみたいになっちゃって…。決して意図的な緊張と緩和ではありません。人間だから、矛盾という言葉では片づけられない経験や思いがあるということです。

 

2019年5月18日