1995年1月17日5時46分に起きたことはよく覚えています。

 

当時、右足の再手術をした直後で国立病院に入院中でした。

(足の手術にまつわる話は長くなるので割愛しますが、この約1年前、生きているのは奇跡に近いと警察に言われた単独の交通事故を起こし(高速で自爆)、5か月入院した半年後の再入院)

たまたまかもしれませんが、地震が起きる2~3分前に目が覚めました。目が覚めて、病室の天井をボーっと眺めていたらいきなり強烈に揺れました。

手術直後で歩けないし、非常に焦りました。

 

揺れが落ち着いてから、車いすで病棟の食堂(面会スペース)に行きました。頑丈なはずの病棟の壁にひびが入って、非常口の案内表示が外れていて、寮にいるナースの方々がパジャマ姿のままで来られていました。

入院中なので家族はどうなっているのか気になりましたが、電話がつながらず、連絡のしようがありませんでした。家族が来たのは何日も経ってからでした。

1階の外来フロアでテレビを見て、どれほどの地震かが分かってきて、阪神高速神戸線が道路ごと横に倒れていたのがショックでした。

この時は2か月入院していたのですが、テレビと新聞からの情報だけで、家にいないせいか、どこか現実じゃないような感じもありました。

 

この時、実弟の実家がある神戸市西区も被害が大きく、家が傾き断水していました。大阪大学工学部→同大学院(機械工学修士)に通っていた実弟は大阪府箕面市で独り暮らしをしていたので、バイクで水や物資を実家に運んでいたそうです。

(車も持っていたが、渋滞等の道路事情で使えない)

実弟は当然「一人っ子」なので、養親(親戚の叔父叔母)は実弟だけが頼りでした。

 

実弟と会ったのは地震から半年後に、実弟が独り暮らしをしていたアパートに行った時でした。

それからさらに半年後、つまり地震から1年後に車で神戸市に行くと、埋め立て地域にたくさんの仮設住宅が見えました。

 

大地震はそれによる「物質と心の破壊」に目が奪われますが、破壊よりも「再生・復興」が大変で、地道な道のりです。それは東日本大震災や熊本地震も同じでしょう。

だからこそ、風化させてはいけない。

被災者じゃなくとも真摯な態度で誠実な思いで・・・。

他人事かもしれないが、他人事と思わない心で・・・。

 

震災で亡くなられたすべての方々のご冥福をお祈りいたします。

 

 

「何度でも」

こみ上げてくる涙を 何回拭いたら 伝えたい言葉は 届くだろう?
誰かや何かに怒っても 出口はないなら

何度でも何度でも何度でも 立ち上がり呼ぶよ きみの名前 声が涸れるまで
悔しくて苦しくて がんばってもどうしようもない時も きみを思い出すよ

10000回だめで へとへとになっても

10001回目は 何か変わるかもしれない

 

口にする度 本当に伝えたい言葉は ぽろぽろとこぼれて 逃げていく

悲しみに支配させてただ 潰されるのなら

何度でも何度でも何度でも 立ち上がり呼ぶよ きみの名前 声が涸れるまで
落ち込んでやる気ももう底ついて がんばれない時も きみを思い出すよ

10000回だめで かっこ悪くても
10001回目は 何か 変わるかもしれない・・・