長崎に原子爆弾が投下されて69年が経ちます。アメリカ人の半数以上が日本への原爆投下は正しいと思っています。
しかし、数日内に2回も原爆を落としたのは戦争終結のために仕方なかったというのは嘘です。ご存じの方はたくさんいると思いますが、10代、20代の人も見るかも知れないので改めて書きます。

昭和20年8月6日に広島に投下した原爆はウラニウム型の「リトルボーイ」で、同9日に投下した原爆はプルトニウム型の「ファットマン」です。

【リトルボーイ】
littleboy

【ファットマン】
FatMan



 数日間で2回も原爆を落とす必要があったのか、そして、広島の原爆と長崎の原爆は異なるタイプであるということに疑問を抱くでしょう。
素粒子論、原子核物理学者である故・豊田利幸教授は、ウランの核爆発が実験で確認できなかったための人体実験だと述べ、原爆開発のマンハッタン計画を担当した ロス・アラモス研究所は、二つの原爆投下について、「我々は、史上二度の『原爆実験』に成功した」と公式に述べたことが明らかになっています。

1994年12月22日の共同通信で以下の記事が配信されました。
【原爆投下 早期降伏、目的でない・米歴史学者が外交誌に論文『日本への懲罰』】
【ニューヨーク22日共同】
米国立の有力外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」は来年1月9日発行の最新号で、太平洋戦争末期の広島、長崎への原爆投下は日本の降伏を早めたり、米軍兵士の犠牲を回避するのが目的で決断されたわけではない、との内容の米歴史学者の論文を掲載する。

1945年8月の原爆投下をめぐって米国では、戦争終結を早め、日本本土上陸作戦を無用にすることで米軍兵士50万人の生命を救うために決断された、などと正当化する議論が有力だが、論文はこうした米国の一般的な見方の修正を迫っている。

執筆したのはカリフォルニア州スタンフォード大学のバートン・バーンスタイン教授。
当時の政策担当者のメモや日記、また秘密解除された公文書などの資料に基づいて当時の政策判断を検証している。
それによると、戦争末期の45年、日本が降伏しなければ米軍は11月1日に76万7000人の部隊による九州上陸作戦の実行を計画。その際には最大2万5000人の米側戦死者を予測していた。
続いて翌46年3月1日に計画していた東京正面の上陸作戦では1万5000人から2万1000人の戦死者を予測していた。
バーンスタイン教授は、上陸作戦による50万人の戦死者予測などは存在せず、当時の米国指導者はより大きな犠牲を避ける目的で決断したわけではない、と主張。
また最大で計4万6000人と予測された米軍の戦死者発生を回避するためでもなかったとして、日本に懲罰を加えることが原爆投下の本来の目的の1つだった、と説明している。
また、原爆開発のマンハッタン秘密計画は約20億ドルの資金を投じて推進されたため、ルーズベルト、トルーマン両大統領は政治的にもその成果を示す必要があり、民間人に大量の犠牲者が出ることが分かっていながら原爆投下の決断を下した、としている。

<引用は以上>


マッド・アマノ著『リトルボーイとファットマン』によると、米軍の極東総司令官だったマッカーサー元帥やアイゼンハウワー大統領が現役を退いた後に、「原爆投下は無用だった」と公言したとあります。
しばしば、旧日本兵が中国などで虐殺をしたなどと言われますが、原爆投下に勝る大虐殺はありません。
しかし、アメリカは戦勝国のため、「原爆投下=大虐殺」とされることはなく、敗戦国は「悪者」にされてしまったのです。
さらに、共産主義者によって「戦中の日本は悪」というイメージが植え付けられました。
日本は「悪」で、米国、英国をはじめとした連合国は「正義」というのは間違いです。
「戦争反対」という想いを第二次世界大戦における旧日本軍は悪だという戯言と混同してはいけません。


 本書は、トルーマンの原爆投下の理由については、終戦時の首相鈴木貫太郎が「ポツダム宣言」を黙殺したからだ、あるいは百万の米兵を救うためだったとの解釈がなされてきたとするこれらの通説を完全に覆すものだ。
著者は、昭和19年の日本軍の一号作戦から説き起こし、その結果に衝撃を受けたルーズベルト大統領がドイツ降伏後一日も早く日本を降伏させねばならないと考える一方、日本では昭和20年6月22日に天皇が「時局収拾」を述べて降伏の意向をかためていたことを指摘。
そのうえで、原爆実験の日、投下準備完了の日、ポツダム会談開催日、ソ連参戦の日という原爆投下にいたる4つの重要な日付を手がかりに、ルーズベルトの急逝後、新大統領となったトルーマンとその最側近であったバーンズが、それぞれの日付をめぐって、どのように動き、いかなる発言をしたかをとりあげて精緻に分析していく。
結局のところ、二人は日本の降伏を早めたいという考えなど持っておらず、それとはまったく逆の発想のもと、すなわち日本が降伏する前に、またソ連が参戦してしまう前に原爆を世界に公開したいがために、政府・軍の高官に悟られぬよう極秘のうちに巧妙な計画を立てていたと著差は説く。その計画のなかには、日本が「ポツダム宣言」を最後通牒と受け取らぬような仕掛けも含まれていたのである。洞察力に富む推論に、まさに目が開かれる重いがする。