邪馬台国は北九州説と畿内説が有名ですが、これは朝鮮半島説です。

 

<2013年10月21日の記事の再掲>

 

義務教育課程の中でもれなく全員、「邪馬台国」「卑弥呼」という言葉と、邪馬台国の場所について、北九州説と畿内説があると習ったと思います。

これ程、場所がハッキリしないだけでなく、日本で具体的にどういう政治を行ったかも分からないことを義務教育課程で教えるのはいかがなものかと思います。

試験に出す以上、定説のない不確定なものをカリキュラムに入れるのは、個人的には賛成できません。

 

さて、定説上、天皇は神武天皇が初代とされていますが、神武以前、既に畿内には支配勢力があった可能性があるので調べていた時に、

(神武天皇が近畿へ東征する際、畿内を八咫烏に案内された、そして、ニギハヤヒ(物部氏)が畿内にいたと神話で伝えられている)

7世紀頃に成立した大和朝廷についての記述がありました。

 

大和朝廷が成立する直前の時期まで、邪馬台国がどこかに存在していたことは、当時の中国の文献で分かっています。ただ、大和朝廷と邪馬台国の関係性が不明です。

この2大勢力は戦ったのか、戦ったとして、どちらが勝ったのかなど、それについて書かれた文献はこの世に存在しません。

 そもそも、日本国の正式な歴史書である『古事記』『日本書紀』に、「邪馬台国」と「卑弥呼」という言葉は一言も出てきません。全く触れられていません。 

 

『古事記』『日本書紀』を編纂する際の基本方針として、日本国外については一切、書かれていません。記紀にはあくまでも日本国内の出来事のみが書かれてあります。

 

邪馬台国の場所について、畿内説と北九州説はどちらも決め手に欠き、調査開始から100年経っても、いまだ不明とされています。

しかし、朝鮮半島説をとなえる学者がごく少数いて、本が出版されていることを知りました。

山形明郷 著 『卑弥呼の正体―虚構の楼閣に立つ「邪馬台」国という本です。

 

邪馬台国は朝鮮半島南部にあって、卑弥呼もそこにいた。

だから、大和朝廷との戦いなどを伝える文献がなかったのです。

「邪馬台国」「卑弥呼」という名前は、当時の中国がつけたものです。

漢字を見れば「中国より格下」という意味が込められているといえます。

そして、古代朝鮮王朝も定説とは違い、「楽浪郡」は現在のピョンヤンにあったのではなく、中国の遼東(現在の遼河東部)にあったことが、文献を精査した結果、分かったのです。

さらに、「帯方郡」は現在のソウル付近にあったというのが定説ですが、これも間違いで、中国の遼東(現在の遼河東部)にあったことが分りました。

 

 

私が思うに、邪馬台国関連における日本人の最大の勘違いは、「倭人=日本人」と思い込んでいるところです。

『魏志倭人伝』の冒頭を訳すと、「倭人は、帯方(現在の中国の遼河東部)の東南の大海の中にあって、山と島で国をなしている。もとは100国余りあった。」とあります。

当時の古代中国人は日本列島の存在を知らなかったから、朝鮮半島の人々を倭人と呼んでいたのだろうと考えます。

(当時の古代中国人が日本海を「大海」と呼んでいたことから、朝鮮半島の先には大きな海洋が広がっていると思っていたと推測できる)

 

 

 

画像はお借りしました

 

 

ところで何故、「邪馬台国・朝鮮半島説」がもっと大々的に公にならないのか。

それは、現代の日本、韓国、北朝鮮、中国のそれぞれの国民のイデオロギーがそれを許さないだろうから、歴史学者たちは、その説はないものとしていると考えられます。

 

最後に、私は「邪馬台国・朝鮮半島説」「古代朝鮮・中国遼河東部説」が絶対に正しいと断言している訳ではありません。

ただし、当時の東アジアで最も文化が高かった中国の魏志倭人伝などの正史(国が書いた歴史書)の記述内容と、上記の説はつじつまが合い、非常に合理的な解釈であると考えます。