この過去の記事を改めて読んで、自分の筆まめは祖父の隔世遺伝かもしれないと、いつぞやも思ったことをまた思いました。自分にとってこうして文を書くのは一種の精神安定剤なのかもしれません。

 人にはいくつも過去世があるという。そして、出会いは必然の宿命だという。だったら、今世で出会って話したり、ネットを通じて言葉を交わしたり、そういう相手は過去世で知り合いだった可能性があるということですね。
12年間、ブログをしてきて感じるのは、何人か波長の合う人と出会ったのですが、そういう場合はお互いに関心があって、どういう人か気になるからブログを熟読したり、コメント欄等で言葉を交わしたりすることが増えていきます。直接会わなくても波長が合う人は分かると思います。
文章だけで何が分かる?と言う人がいるかもしれませんが、言外から感情や空気感、オーラのようなものが読み取れます。また、同じ人でもその時々で、肩ひじ張ってる時もあれば、リラックスしている時もあります。

過去世で関わりがあって、今世でも出会う人の数は、数十年前と比べてケタ違いに多いはず。ネット社会になる前と後とでは出会う人の総数が全然違うからです。「袖振り合うも他生の縁」の爆上げといった感じでしょうか。。
前世人格の人生が終わった後、今世に別人格として生まれ変わるにあたって出会う人や数を設定したとき、ネット社会になることは分かってたということになりますね。そう考えないと、ネットでの出会いに必然や宿命はないことになりますし、それだけの数を「さばけない」ですからね。

 話は変わって、リアルとネットで区別しているという方がいますが、そんな必要ある?って、個人的には思っちゃいます。だから僕は人への接し方はリアルもネットも同じです。そうじゃないと人づきあいが不自然になってしまいます。
プライバシーを守るのと、バリアを張って愛想のない形だけの丁寧な文を書くのとは別です。そこをはき違えている方が時々います。仕方なく建前で丁寧文を書いているぐらい、読んでる方には分かりますから。そんなものはビジネス文書の定型文と変わらない。

「所詮ネットでの関わり」って言いますが、「所詮」かどうかはあなたの意識にもよるんじゃないでしょうか?

 それとは比較にならないほどひどいのが、リアルもネットも、どちらもあいさつや礼儀は人として当然なのに、初コメントで一言のあいさつもなしにぶしつけな文を3行ほど書くだけだったり、「ところであんた誰?」って感じの、自分の世界に浸った意味不明の文を書いたりする「非社会人」です。特にスピリチュアル系とメンタルヘルス系に多い。

いい歳したオッサン・オバハンが「はじめまして」のひとつも言えんのか!?そんなことも言えん奴がオーラがどうとかほざくな!まともに友達できたことないやろ?って思う。初めてやり取りする相手との距離感がおかしいし、人様相手にモノを言ってる自覚がない。
僕はネットで知り合う人も、まともな人の方が圧倒的に多いけど、一部のそういう人間のために、「所詮ネット」って思う人がいるのかもしれません。
そういう「お電波様」って普段、人とどういう接し方や話し方なんでしょうね。


<2012年12月20日の記事の再掲>


 かの天草四郎時貞の最期の言葉は、「今、籠城している者達とは来世でも友達だ。」だったそうだ。

 母方の祖父母は、母が7歳の時、4歳の時にそれぞれ亡くなったので、滋賀県がルーツらしいがよく知らない。
父方の祖父母は生きていたので、色々と話を聞いた。
父方の祖父は、天草出身で、弟と神戸に出てきたそうで、それまでの先祖は、おそらく天草で生きていたと思われる。
父方の祖母は長崎県佐世保市で商売をしていて、裕福な家庭で育ち、女学校に通っていたそうだ。
祖母は、祖父の何通にもわたる恋文で心が動き、一緒になったらしい。

自分にとって、先祖が天草で生きていたことが気にかかり、興味がある。もしかしたら、島原の乱の時に隠れキリシタンだったのかも・・・と想いをはせる。

天草四郎時貞が最期に言った「来世でも友達だ」という言葉。
キリスト教には、「来世」や「輪廻転生」という考えはないはずだが、それはともかく、前世で出会った人の中で、「来世で友達でいよう」と約束した人もいると信じている。
出会うべくして出会った人がいるはずだ。それがどういう関係やしがらみで出会ったにしろ、自分の人生には必然だということは間違いない。

そうやって、人は人によって心が救われ、いずれ魂の故郷(ふるさと)に帰るのだろう。



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