<過去の記事の再掲>
 
昔と今とでは、社会のシステムと学校教育のあり方が変わったため、学校教育と生涯教育の関係が変わったという趣旨です。
個人的には、単なるレポートの域を超えたもので、読み手によっては強く共感できるのではないでしょうか?
「何事も自己責任」というのは正しいと思いますが、誰もがそれぞれの時代の社会のあり方に翻弄されて生きてきたわけで、その責任を全部自分自身に丸投げしなくてもいいんじゃないかと思います。
誰かの思いについて分かる人には分かるし、分からない人はそういう人だから、分かる人とその思いを大切に分かち合っていくことが自己実現につながるような気がします。
「自己実現」という言葉は提唱者によって定義があいまいですが、自分らしく自然体になる究極の形だと私は認識しています。
 
※このレポートでは生涯教育を生涯学習の意味で書いていますが、本当は両者で意味が異なります。
 
 
【科目名失念・参考書籍がどうしても思い出せず、本棚を物色しても該当するのが見つからず】
 日本は長年、「競争」を第一とした教育システムと企業システムの上に成り立ってきた。
学校教育において、生徒は諦めの気持ちをもちながら、各々の学力レベルに見合う受験競争を焚きつけられる。さらに、受験システムに煽られて、現状のレベルより高いレベルの学校を目指す「リターン・マッチ」を行ってきた。
竹内洋氏によると、欲望説(主体内在説)とシナリオ説(主体外在説)があるが、これまでの学校教育はシナリオ説で説明がつく。少しでもランクの高い学校、少しでもランクの高い企業に行かせるという考え方である。
このシナリオ説は、企業のサラリーマンも同様で、企業内の昇進競争にもリターン・マッチがある。
同僚で最初に課長になった者が、必ずしも部長になれるとは限らない。逆に、課長昇進が少し遅れても挽回のチャンスがある。
 
 このように、日本の学校教育において、単にエリート校かノン・エリート校かという二分化したものではなく、輪切り選抜といわれるように、あらゆる学校が微細なランクで序列化された傾斜的選抜システムによって、どのランクの生徒もそれなりの上位校を目指すという受験競争が仕組まれてきた。
そして、その仕組みは企業のサラリーマンにおいても同様である。
その結果、何をしたいかを考える余地のない競争人間、会社人間が社会システムによって大量につくられてきた。
つまり、学校教育は、「自分は何をしたいのか、そのためにはどういう人材を目指せばよいのか」といった真の意味での思考をもたない、単なる競争人間を生み出す中心軸として機能してきた。
 
 しかし、近年、このシステムが崩れ始めている。
これまでの社会システムは倫理基準として、徐々に通用しなくなってきているが、その背景として、かつてないほどの不況と、大学全入時代(学力に関係なくお金さえあれば、もれなく全員どこかの大学に入れる時代)※の到来により、競争しない生徒の出現が挙げられよう。
これまでは、傾斜的選抜システムの「恩恵」で、大半の生徒や学生がそれなりの企業に就職し、それなりに会社人間として生きてこられた。
大不況によるワーキング・プアの人々の激増や、受験勉強に励んでいる生徒や学生がいる一方で、何をしたいか真剣に考えないだけでなく、上昇志向をもたず、競争すらしない生徒や学生が増加してきたことによる格差社会が生まれた。
もはや、平均的な短大卒や大卒ということだけでは価値をもたなくなっている。そこで、学校教育のあり方を見直す必要性が生じてきたのである。
 
 学校教育は、これまでのような傾斜的選抜システムではなく、何を学んでどうなりたいかを重要視した戦略志向に基づいたキャリア形成を目指した大学選択へと移行している。
偏差値という数字による単純な判断ではなく、自分はどのような人材になりたいのかが問われる時代に入ったといえる。
すなわち、受験競争のための学校教育から、「自己実現」のための学校教育への変化であり、この変化は生涯教育に通ずるものである。
よって、学校教育のあり方が変わってきたことにより、学校教育と生涯教育の現代的関係から、自己実現のための教育という共通点を見出すことができる。

 これまでの学校教育は、生涯教育との関連性は希薄であったが、現代的関係においては関連性が高い。
自己実現は人間の最終目標であるが、「何をしたいか」を考え、そのための戦略を立てる学校教育を受けて就職することと、人生の途中で経験する中高年再就職のための生涯教育とは、よく似ている。
つまり、学校教育と生涯教育の現代的関係は、生涯教育の中に学校教育が内包されているのである。
 
 私見として、これまでは、学校や企業において、傾斜的選抜システムが本流とされてきたが、人々のニーズが多様化している現在、各人の人生目標も多様化してきている。
大不況による激しいリストラや大学全入時代という社会構造の変化の中、自分らしい生き方を求める人々が増えてきていることからも、学校教育は生涯教育の一部へと変化しているが、それは同時に、かつての寺子屋での教育に見られるような、学校教育の本来あるべき姿に回帰したといえるのではないかと考える。
 
 
※大学全入時代とは、2009年頃に日本の大学への入学希望者総数が入学定員総数を下回った状況を指す言葉である。
それに伴う問題として、大学教育の質の低下、定員割れ、さらにその結果として引き起こされる大学崩壊などがある。
 
近代学校制度(明治5年制定の学制)ができるまで続いた寺子屋は、教育水準が高く、江戸末期の識字率は8割前後だったと言われる。
地域によれば、村民の9割が寺子屋で学んだという記録もあり、必ずしも武士と町人だけのものではなかった。
 
 
 
※画像はお借りしました