今日から10月。
以下に再アップする過去の記事のテイストとは全く違うことを書くけど、例年、10~11月にかけてメンタルの調子がガクッと落ちることが多い。
(この文章は、後半部分の過去の記事にまつわることを書いてからだいぶ日数が経って書いています。同一人物が書いたとは思えない感じですが、前半と後半とでは1か月以上空いてるので、文体も雰囲気も全然違います)
この時期に下がる原因は19歳の時のトラウマにある。年月が経っても全く色褪せないのは異常なんだろうけど、それだけ人生に大きな影響を与えたし、今も納得できない気持ちが消えない。
これについて自分の責任とはいまだにどうしても思えないし、その後の人生や心にこびりついた苦になっている精神状態を思うと、不可抗力ではなく、「人災」だと認識している。そして、その認識が間違っているなどとは到底思えない。
仏壇に手を合わせる時、純粋に優しい気持ちで出来る時と、大きな過失(罪)を責める時と、その時々で対照的な自分がいる。具体的にどう間違ってて、どう悪かったか、あの世に行っても頭が悪すぎて理解できていないのか、それともあの世で改めて過去のシーンを見て理解できたのか、どうなんだろうと考える。
理不尽に人を責めたり、間違いを追求することはしない。冷静な時に自分を俯瞰で観てフェアに考えないと嫌だから必ずそうする。子供の頃からそうしてきた。
こちらが詳しくハッキリ言わずにいただけで、言い分はいくらでもあったけど我慢してきた。それが最後の2年ぐらいは遠慮せず、論理的に話しながら感情も織り交ぜて、事の重大さをしつこいぐらい繰り返し伝えた。
(こういう気持ちになる対象が他人なら、理不尽に感じても相手にせず、一切関わらないようにしている。自覚のないサイコパスを相手にするのは疲弊するだけで為にならない)
自分が不遇な生い立ち、人生だったからといって、自分の子供もそういう思いを味わっていいことにはならないし、後になって「しまった」と思っても取り返しがつかない。
未熟で思慮が浅いから子供を苦しめる結果となったことは本人も昔から自覚していたようだが、後でそんな風に思うなら、なぜその時に現実的、論理的に、真剣に考えなかったのか、世間一般並みの思考力があれば未然に防げただけに、納得できない気持ちが消えない。
この文章は、詳細な事情を知らない人には「は?」となるだけなのは分かっているけど、全員に理解してもらえなくてもいい。
このブログの冒頭の説明文にもある通り、ネットに残る遺書だと思っているから。
絶対に無理だけど、出来ることなら、言ってることについての事情を映画のように見せられたら、間違った言い分かどうか第三者にも分かるだろう。
今のご時勢、深刻な少子化だから、以前は「できちゃった結婚」という悪いニュアンスで言われてたのが、好意的に「授かり婚」と呼ばれるようになった。しかし、無責任な親になってしまうのなら、子供をつくるべきではない。国の安泰より個人の幸せが優先されてこそ子供は喜びを感じられる。
結婚するのは勝手だが、子供からすれば全くもっていい迷惑だ。
きれいごとはいくらでも言えるが、当事者には寝言にしか聞こえない。的外れな苦言も同様である。
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11年前のこんな記事を再アップ。
ブログネタ「今日あったイイコト」で書いたうれしはずかしみたいな話。
忘れてた記憶を思い起こすと、この年の前後の数年は勉強熱心やったけど、違う方面もちょっと熱心やったかもしれへん。他人が聞いたらそうでもないやろけど・・・
そやけど、その数年間のいくつかのそういうことは親友にも誰にも話したことない。口が堅いのか?
中年男がそんなこと面と向かって話すのは抵抗あるし、隠したいからやろな。
自慢げに、笑いのネタのように、ことの一部始終を話す奴の気が知れん。下品やってことに気づかんのかって思う。
俺、誰に何言うてるんやろ?(笑)
<2008年6月29日の記事の再掲>
ブログネタ:今日あったイイコト 参加中