ここ数日、
ブログを更新
してませんでした。
家族に対する
嫌な感情を
断捨離すると決めてから、
まだまだ出てくる
モヤモヤについて、
今回この場で
整理していこうと
思います。
これまで
このブログでは
私のブラックな部分を
たくさん書いてきました。
特に、
発達障害で認知症の
おじいちゃんのこと。
ものすごい速度で忘れる
認知症の
おばあちゃんのこと。
アスペルガーで
ゴミ屋敷クリエイターの
父親のこと。
その中でも、
現在直面しているのは
おばあちゃんと父親。
おじいちゃんは
施設に入ってくれたので
とりあえず今は
掘り起こしません。
おばあちゃんは、
今日も、
行かないでと
念押ししたにもかかわらず
買い物に行き、
転んで顔面を打ちました。
もちろん手とか足とかも
打ったんだろうけど、
一体自分のどこから
血が出ているのか
わからないまま
家の中に入り、
そこらじゅうを
血で汚しながら
歩き回ります。
どんなにやめてと言っても
キッチンに立ちます。
鍋とフライパンは
空焚きをして乾かすのが
当たり前だと思っています。
2日に3回、
鍋を焦がします。
まだ新しいIHヒーターは
真っ黒焦げ。
T-falの鍋とフライパンは
赤色のマークが
一切見えません。
洗濯機は3年で壊します。
冷蔵庫には
同じ食材が大量にあったり、
冷蔵と冷凍を間違えたり、
10年近く前の賞味期限のものも
現役で居座っています。
そんなおばあちゃんと
一緒に過ごしながら、
私はこう思っていました。
おばあちゃんが
施設に入るなりして
家からいなくなったら
新しい鍋を買おう。
おばあちゃんが
家からいなくなったら
新しい洗濯機を買おう。
おばあちゃんが
家からいなくなったら
綺麗に掃除して
子どもたちが
裸足で走り回れる
家にしよう。
そうなったら、
平和な生活ができる。
理想の生活ができる。
それまでの辛抱だ。
それまではなんとか
対処してやり過ごそう。
そう思っていました。
でも、
それって本当に
理想の生活かな。
今は家に
認知症のおばあちゃんがいて
まるこげになった鍋がある。
私の理想の生活には、
綺麗な鍋がある。
ただ、綺麗な鍋がある。
それが私の
理想の生活かな。
おばあちゃんが
いなくなったらって、
本当にいなくなったとき、
本当に今と同じように
思えるかな。
私、そのとき、
どんな気持ちに
なるんだろう。
認知症だろうと
発達障害だろうと
みんなが幸せに
笑顔で過ごせる時間。
なんとか作れないかな。
私の心の余裕や
人としての器。
足りてるかな。
人は
人を変えることは
できない。
いつだって
自分から
変わるしかない。
鍋なんて
また買えばいい。
でも、
おばあちゃんの笑顔は
お金じゃ買えない。
ここ数年、
家族について
ちゃんと向き合って
なかったかも。
合理主義に
なりすぎてたかも。
今の私にとっては、
子どもたちの
笑顔と健康が最優先。
それを邪魔するものは
全部敵。
そう思っちゃうと、
意味不明な行動をとる
おばあちゃんは
完全に
敵になっちゃう。
子どものことや
自分の家族のことに
時間を使いたいのに
意味不明な行動で
私の仕事を増やしてくる。
私から
時間とエネルギーを
奪っていく。
時間の余裕が
なくなるのと一緒に、
心の余裕も
なくなっていく。
本当は
やらなくていいことに
時間をとられて
イライラさせられる。
だけど、
本当に大事なのは
正しいか正しくないか
じゃなくて
愛があるかないか
なんだよね。
合理的に考えると
そりゃ最悪よ。
めんどくさいし
もったいないし
不便やししんどいし
嫌なことばっか。
だけど、
人はみんな
生きてるだけで
奇跡で、
笑顔でいるのが
最高で。
本当は
どこを探しても
愛しかない
世界なんだよ。
たまに、
やっぱり
愛しかない時間
ってゆーのを
作ろうかな。
日頃のストレスを
全部忘れて
ただ笑いながら
一緒にごはんを
食べる時間とかさ。
大事だよね。
きっと。
月2くらいで
一緒にごはんに
行こうかな^ ^
家で作るのは
大変だから、
食べに行きたい。
子ども二人
連れていくから
大変は大変やけど、
それもひっくるめて
楽しく幸せに
過ごす時間を
作りたい^ ^
そうしながら
改めて
今の幸せを
感じたい^ ^
おばあちゃんの記憶も
子どもたちの成長も
あっとゆーま。
今のこの大変さに
フォーカスすると
本当に大変やけど、
大きく広く見て、
大前提にある
幸せを
忘れないように^ ^
あとで後悔
しないように^ ^
あ、
父親のことについて
触れるの忘れたけど、
それはまた今度
書きたいと思います^ ^