数年前に紀州おんりーわんTしゃつ屋の工房がある紀の川市桃山町に津田監物さんのお墓があると調査の結果わかりました。
その時はさほど気にならなかったのですが、歴史の現場には旬のうちに訪ねるべきだったと痛感しています
こちらは、和歌山市吐前にある私の実家の菩提寺。こちらは吐前城主の津田監物と一族のお墓があります。
墓石には織田信長さんと同じ木瓜紋が。
私の知人にも子孫だという津田さんがいます。お墓の場所がナカナカわからなかったので知人に教えてもらいました(*≧∀≦*)
すると、桃山の方にあるお墓のことを思い出して居ても立っても居られなくなり‼️
桃山町には大日堂があちこちにあり、人に聞きながら訪ねた場所はみなハズレでした
そこで、再度自力で調べて以前見たサイトで現地をとことん探しました‼️
やっとGoogleマップにそれらしき場所を確認して向かったところ、ありました(*≧∀≦*)
大日さまの石仏は珍しいそうです。
ろうそくとお線香があったのでしっかり拝んできました
史跡めぐりに行くとお墓にもおまいりする事が多いです。古戦場跡などに行くと体調崩したことも多々あるので、出来るだけお墓には近寄らないようにしていますが、最近は石塔にはかなり関心がでてきたりして
今回も近くまで来るだけで、鳥肌が立ちます。場所が正しいかどうかがわかるようになりました(笑)
亡くなられた場所にあった五輪の塔は、道の拡大に伴い現在の位置に。
その時に掘り返され調査をしたそうです。
楠木正成四代とあります。
野田原の伝説によると、天正13(1585)年3月、豊臣秀吉さんの根来攻めの時、高野街道を落ち延びてきた津田監物さんは深傷を負っていて、高野街道と村道との分岐点近くの窪みで落命したとされています。
すでに死期を覚悟した監物さんは、手厚く介抱した三軒の人らに自分の「墓所に提灯と幟と刀剣を埋めてほしい」と三人にそれぞれ菊水の紋の付いた提灯と幟と刀剣を与えたといわれます。
刀剣は今も津田氏の家に伝えられているとの事で訪ねてみましたが、今はもうないそうです。
また、臨終を看取ったこの三軒の人らに、津田性を名乗ることが許されたと伝えられています。
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