歴史のif

 歴史にifはありえないけれど、もしそうだったらと考えると楽しくなります。

 

 今回のifは織田信長が徳川家康のように譜代の家臣を大事にしていれば、本能寺の変は起こらなかっただろうと思います。

 そして老いることを知っている人が側にいて、それを教えていれば、やはり起こらなかったのではないでしょうか。

 

 まぁ、あの天才にそのifを望むのはバカな事だと思いますが、家康にはそれがあったから、長期徳川政権を持つ事ができたと思います。

 

 1580年信長は突然佐久間信盛に「19ヶ条の折檻状」を送りつけました。領地、財産を没収され、高野山に逃れたと伝わっています。

 

 信盛は織田家筆頭家老で、戦功もたくさんあり、「退き佐久間」と謳われた程の武将でした。 

 

 折檻状にある信盛が石山本願寺に対して何もしなかったというのはおかしい。力攻めでは大きな被害を出すと信長も分かっていたはずです。

 

 欲張りだというのもおかしい。織田家には所領の検地制度もなく、際限のない軍事動員や軍役の加重負担も相当なもので、軍事費はとてつもなく多かったのは明らかです。

 

 信長は報酬を成果主義に変えたので、今までどんなに功労があっても、信長の機嫌を損ねれば、全てを失うことに、家臣はどれだけ恐れおののいたでしょうか。

 

 そこで一番おののいたのが明智光秀だと思います。

 

 彼は前半生が全くわからない人なので、生年が1516年とか1528年とか言われています。

 

 1582年信長は光秀に出雲、石見の平定を命じました。領地替えです。仮に54歳としても、今の人の感覚だと70歳位でしょうか。もう年寄りです。隠居したい年齢です。

 

 これまで努力して手に入れた丹波の国や坂本城や福知山城が全て没収されてしまうと考えると夜も眠れなかったでしょう。

 

 自分はもう歳を取って、以前のようには動けないし、頭も働かない。気力、体力ともに衰えている。(私がそうです)

 毛利の領地の出雲や石見をこれから短期間のうちに平定はできるはずがないと思ったでしょう。

 

 そこへ京都の信長の警備の手薄を知ったなら、戦上手の光秀には今だと魔が差したのだとしか考えられません。

 

 対して家康には優れた譜代の家臣が大勢いて、大事に思い、遇しました。(例外もありますが)

 

 家康にはブレーキをかける家臣がいましたが、信長は自らが神になろうとした人でした。冷徹な残虐者が天下を長く保てなかったのはそこにあると私は思います。