ゴッドメモリ(「江戸切絵図の記憶」を改題)《二》 | 跡部蛮のサブブログ

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また、江戸の古地図を持って町歩きする会(江戸ぶら会)の報告もおこなっていきたいと思います

本日未明、救急救命センターに一人の男性患者が意識不明の状態で搬送されてきた。


麻紀は、その患者の容態を確認しておくよう主任に指示されていたのである。


脳外科と救急救命センターがこうして密接に連絡をとって患者の処置にあたるのもこの病院の特徴であった。


医局を出る際、木崎(きざき)という一つ上の医師が侮蔑するような目を向けてきた。


彼が「あの女、教授や医局長らに取り入って出世してやがる」と陰口を叩いていることは知っている。


女医に対する風あたりや偏見がまだまだ強い医学界だ。


少しでも抜け出すと、すぐに陰口を叩かれる。


それも、新しい医学領域である脳外科ともなるとなおさらだった。


とくにエリート意識の強い連中はみんなそう。学生時代の友達から、


「麻紀はキレイなのにどうして彼氏ができないの? もうそろそろ三十歳だよ、私たち」


などといわれるが、別に男嫌いなのではない。


ただプライドだけ高くて内容のない男ばかりに囲まれているからなのだ。


医局を出て、エレベーターホールに向かうまで、知らない顔の医師や看護師と数人すれちがった。


以前より病床数が増え、新規に採用したスタッフが三割程度増えたのだから、あたりまえといえばそれまでだが、どうも調子が狂いがちだ。


さきほどの看護師などは飯田橋時代からこの病院に長く勤めているはずなのに、ここに来てから「沢渡先生」と呼ぶときの表情や声音から、つんととり澄ました冷たさを感じてしまう。


この病院に来てから何から何まで変わってしまったように思う。


エレベータを二階で降り、本館の二階から、別棟になっている救命救急センターへ通じる連絡通路へ向かった。


同センターの一階には急患の搬入口や初療室が並び、その先にはモニターカメラで重病患者を二十四時間監視できる集中治療室(ICU)がある。


麻紀はICUの前で手を噴霧洗浄して中へ入った。


ICUの中は、ブラインドの降りた窓ガラスにそってベッドが十床ほど並び、それぞれのベッドはカーテンで間仕切りされていた。


そのほぼ中央に、その男性患者のベッドがあった。


臨終間際の患者をみとる親族のように、機器やモニター類がぐるりとベッドの周囲をとり囲んでいる。


だが、人工呼吸器の操作パネルやモニター類が彼に語りかけることはない。


操作パネルは無表情にベッドサイドをみつめ、枕元のモニターは心拍数などのデータをただ事務的に告げるだけであった。点滴スタンドにはいくつもの輸液バッグが吊り下げられ、薬剤とチューブによって生命が保たれているさまは、臍の緒によって母体からの栄養を吸収する胎児を思わせた。


包帯で頭部を覆っているために全体の印象は掴みにくいが、患者は目鼻立ちが整い、ほり深く、どことなく神経質そうな雰囲気があって、体つきは全体的に痩せぎす。年齢は四十前後といったところであろうか。


患者の瞼を開けて瞳孔を測定すると、両目とも五ミリ程度拡大し、瞳はペンライトに何一つ反応せず、対光反射消失の状態は続いていた。


これまで脳死寸前の患者を多く診てきたが、彼のような例はめずらしかった。


患者は身元を証明するものが何一つないホームレスだというのである。


彼のように意識不明に陥り、生命維持に必要な脳幹反応の波形が弱くなっている患者がやがて脳死に至るケースもあるだけに、こうなったらあとは奇跡に頼る部分が少なくない。


しかし、そう思う一方で、長い間臨床の現場で患者に接していると、じつに不思議な現象にでくわすものであった。


たとえば、親族が枕元で患者の名を呼び続けているうちに奇跡が起き、患者の意識が戻ることもなくはない。


だが、目の前の患者の周囲には、機器類が無表情にとり囲んでいるだけ。そんな彼に同情したのかもしれない。


何とか彼の意識をとり戻してやりたかった。


そして、「沢渡には荷が重すぎる」と陰口を叩く木崎の鼻を明かしてやりたかった。


しかし、その前にまず彼の身元を掴まねばならない。そうしなければ患者の名を呼びようもないし、家族に知らせることもできないのだから……。


彼女は患者の枕元のブザーを押し、救命救急センターの看護師を呼んだ。


「先生お呼びでしょうか」


彼女より十歳ほど上にみえる看護師の女性が入って来た。


「わたし、脳外科の主任から簡単に説明受けただけでまだ詳しく聞かされていないの。昨夜の当直主任は誰だったんでしょう?」


「芳澤(よしざわ)先生です」


「まあ、それなら処置は完ぺきだったんでしょうね」


「もちろんです」

 

看護師がそう胸を張っているところが少しおかしかった。


しかし、芳澤といえば、優秀な救命医として、この病院どころか、救命医学界でも名の知られた医師であった。


ただ腕が立つだけでなく人格的にも部下や看護士の尊敬を集めている。


脳外科と救命が連携するケースもよくあるだけに、麻紀もその芳澤から薫陶を受けている一人であり、また、彼を尊敬する若手医師の一人であった。


ただ救命という仕事柄、彼は夜勤が多く、病院で顔をあわすことはほとんど稀であった。


「この患者、浅草の路地裏でひき逃げに遭って、あとはホームレスで身元不明……というところまでは聞かされているんだけど……何か所持品はなかったのかしら」


「はい、ありました」


 看護師がいった。

(つづく)


※「第二回北区内田康夫ミステリー文学賞」の特別賞受賞作品を改題して加筆改稿したものです(木曜日と土曜日更新の予定ですが、土曜日は「江戸ブラ会」京都合宿のため、お休みします)。